アマデゥス・ホフマン
原作者E.T.A.ホフマンのフルネームは Ernst Theodor Amadeus Hoffmann(1776 - 1822)といい、本名は Amadeus ではなく Wilhelm。ご想像の通り、アマデウス・モーツァルトの大ファンであったから、アマデウス・ホフマンと名乗りたかったものらしく、訳者石川道雄氏は「アマデゥス・ホフマン」と紹介している。
この本は、新刊を購入したところが、再刊のようなものだった。奥付には「二〇二二年四月二五日発行」とあるのだけど、〔編集付記〕と題して「本書の底本には『ホフマン怪奇小説集』(一九四八年、イヴニングスター社)、『ホフマン小説集』(一九四八年、河出書房)、『胡桃割り人形と鼠の王様』(一九四三年、青木書店)、『新世界文学全集20巻』(一九四〇年、河出書房)、『ブラムビラ姫』(一九四三年、青木書店)を使用した」とある。戦前、戦中、戦後に出した本を集めたものだから、仮名遣いなどは現代式に改めてあるものの、文章はそのまま。半世紀以上は古い代物だが、さして古いとは感じなかった。収録作は
上巻
- セラピオン倶楽部(抄)
- 宙に浮く皿
- 顧問官クレスペル
- 吸血鬼
- 胡桃割り人形と鼠の王様
- 小夜物語
- 砂鬼
- イニヤッツ・デンナー
- G町の羅馬教会
- 聖歌
- 廃屋
- 家督相続異聞
- 祈誓
- 石に刻める心臓
- ブラムビラ姫
となっている。
ホフマンの『吸血鬼』
もちろん、気になるのは『吸血鬼』だが、これも予想がつく通り、種村季弘訳『吸血鬼の女』と同じものだった。実は、そちらは未だ入手していないので、ノセール氏の引用を見ただけだが。
種村訳で「セラピオンの兄弟」とされた短編集は、石川訳で「セラピオン倶楽部」とされている。今となっては「セラピオン同人集」で通りそうだ。『千夜一夜物語』や、ボッカッチョ『十日物語』などと同じ枠物語の構造を取り、しかし石川訳では枠部分を訳出していないので、原題が『吸血鬼』であったかのような誤解を生むかもしれない。ドイツ語版 Wikipedia 及び英訳版に拠ると、この話は第8巻に於て、ウォルター・スコットやバイロン卿など英文学を語り合い、小説 Vampire を貶して後、セラピオン同人として登場する一人Cyprianが語る話で、題名はない。[Vampirismus]というのは後付けで、原作には出てこない。
ホフマンの怪奇小説は、ゲルマン・ゴシックとでも呼ぶべき幽霊譚流行にあって、ゲーテを始めとするドイツの作家や批評家連中に通俗的と嫌われ、評価されなかった。作者の死後、忘れられた。訳者石川道雄氏に拠れば、「セラピオン倶楽部」収録の『胡桃割り人形と鼠の王様』は、アレクサンドル・デュマの仏訳(1845)で出版されたものが、独訳され逆輸入されたという。
ホフマンと交流があったアーペルとラウンによる『幽霊の本 Das Gespenster buch』シリーズの抄訳『幽霊奇譚』(識名章喜訳)訳者解説に於ても
…英米圏ではゴシック小説が文学性を高く評価され、研究者が「深い愛情を懐いて」対象にあたる一方、ドイツ語圏ではこの手の作品が娯楽小説として一段低く見られ、研究者にも「愛情が殆ど見られない」(石川實『シラーの幽霊劇』)からである。これは現在に至るまでドイツ文芸学の宿痾になっており、エンターテインメント全般に対して冷たい。
とあるから、事情は現代に於てなお変わっていない。ドイツとイギリスのゴシック文学が互いに影響し合っていたのは夙に指摘されているのに、このような事情により研究は進んでいない。フランスではホフマンその人がオペラにまでなったのに、故国での扱いは残念というしかない。
吸血鬼ではない?
ノセール氏の懐く違和感は尤もなところで、この話に血を吸う描写は殆どない。屍食鬼よろしく死体を喰らうばかり。最後に正体がバレたところで、胸元に喰らいつくのが唯一。そう言えば、枠物語の枠のところで、セラピオン同人同士が語り合うのだが、この話の前段ではスコットだのバイロン卿だのと英文学を取り沙汰する次いでに、vampire についてもバイロン卿の作と勘違いしたままアレコレ扱き下ろした挙げ句「さあ始めろシプリアヌス、バイロン卿のヴァンピリッシュ並みにゾワゾワ怖ろしげにな、自分はバイロン卿なんて全然読んじゃいないから知ったこっちゃないが」と焚きつける有り様(石川訳では訳出されていない)。
" Hush ! hush ! " said Vincenz . " I could not wish anything better than that Cyprian should hang up a fine dark canvas by way of a background so as to throw out the figures of my tale , which I think are brightly and variedly coloured , and certainly excessively active . Begin , my Cyprianus , and be as gloomy , as frightful , as terrible as the vampirish Lord Byron himself , though I know nothing about him , as I have never read a word of his writings . "
とまあ、話の筋書きでセラピオン同人が好き勝手に言うのは、全てホフマンの創作であるからして、ホフマン当人の事情でもあろう。つまりポリドリ博士の The Vampyre. は読んでいないので、それまでの vampire 譚を元に、当然ながら旧来の vampyre、つまり「動く死体」である幽霊の話を創った。結果としてポリドリ博士『吸血鬼』を止揚したつもりが、より古臭いスタイルの異様な話になってしまった。
死人花嫁?
『幽霊綺譚』に収録された『死人花嫁』は、ゲーテ『コリントの花嫁』の同工異曲。
対してホフマンの説話は、ヒッポリイト伯爵が遠縁の男爵夫人及び娘アウレリエに出会うところから始まる。伯爵は艶やかな娘に恋するのだが、母親は不細工ではないのにゾッとする感じがあって、その手は体温を感じさせない。

といってシュトロハイムのような機械でもなく、つまり最初からこの世の人ではない。『死人花嫁』説話が当時のドイツ文士に広まっていたとしか思えない描写で、おそらく当時は、それが幽霊たる吸血鬼の特徴と考えられていたのであろう。母親が歩く幽霊 = 吸血鬼である以上、娘が人外でない筈もなく、だいたい皆様ご想像の通りに話が進む。但し上記の通り、吸血の様子は最後まで描かれない。
※シュトロハイムのイラストは atwiki から。吸血鬼と戦って(ヘマこいて)はいるものの、本文とはあまり関係ありません
胡桃割り人形と鼠の王様
ご存知チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』の原作。ホフマン唯一の童話。
いや、童話の筈なんだけどね?ニュルンベルクから来たドロッセルマイヤー叔父さんが怖い。醜い胡桃割り人形に変身させられた王子とか、その姿を見て掌を返した恩知らずピルリパート姫とか、話が長くおぞましい。吸血鬼こそ出てこないけれど。
チャイコフスキーの台本が、デュマの仏訳だったのは勿怪の幸い。ホフマン原作のままだったら、あんな可愛らしいバレエにはならなかったであろう。おどろおどろしく渦巻くドス黒い情念が、子供向けではなく大きなお友達向けのアラビアン・ナイト化しちゃってるような…
読み返すと始まりがクリスマスイブだったり、ヒロインのマリーが7歳だったり、ドロッセルマイヤー叔父さんの甥がニュルンベルクから来ていたり、色々引っかかる。結末ではドロッセルマイヤーの若君が王になり、マリーを妻に迎え… って、7歳の童女を娶るのか。ワーグナー『ニュルンベルクの名歌手』は史実のニュルンベルクから随分離れているそうだが、それでも結婚すると称して童女を拐っていったら拉致になるんじゃないのか。子供向けの話だから良いということにはならないと思うが、当時は違ったのだろうか。
『死人花嫁』を引き合いに出す『砂鬼』
種村季弘訳では『砂男』。此方はドリーブ作曲のバレエ『コッペリア』の原作。やはりバレエの筋書きは単純化されハッピーエンドなのに対し、複雑怪奇な原作では主人公の男が死んで終わる。
原作に於ける自動人形は「コッペリア」ではなく「オリムピア」と呼ばれ、「氷のように冷たい手」と何処かで見たような描写をされ、とどめに
手に触れたときに既に身内がぞっと慄えて、一瞬あの死の花嫁の伝説が頭を掠めたのであったが、オリムピアが彼を犇しと抱きしめて口づけをするうちに彼女の冷い唇にも温い生気が通いはじめたように思われた。
と、「死人花嫁」を引き合いに出す。あるいはM.G.ルイス『華麗なる金の指輪』からの印象かもしれない。
vampire への意識を、もはや隠そうともしていない。但し、ほぼ同一の表現を用いながら、死霊ではなく人形であったというのは、人形のような吸血鬼に魅入られた者への皮肉であったろうか。
ボードレールが称賛したという『ブラムビラ姫』など、興味深い作品は他にもあるが、vampire に触れたものとしては以上の『吸血鬼』『砂鬼』2作が特筆されよう。しかし、ポリドリ博士の『吸血鬼』を読まなかったばかりに、以後の作品としては、前提とする「吸血鬼」概念自体がもはや流行遅れという外はない。ポリドリ博士は(自覚することなく)「吸血鬼」という概念を再定義し書き換えてしまったので、それ以前の「吸血鬼」は尽く、野暮ったく古臭くなってしまった。詩人たるもの、世界の先頭に立って常に時代を新しく塗り替えざるを得ず。「バイロン卿が何をしたか知らないが」と上を向いて喋り、新しい物語を拒絶した時点で、勝負は見えていた。
ショスタコーヴィチ第12弦楽四重奏曲
30分近い大作。どの演奏も充実して… と言いたいところだが、正直言って You Tube に上がっている演奏そのものが少ない。弦を美しく歌わせる旋律も少なからず詰め込まれているのに、演るにも聞くにも一種の覚悟を要するからだろうか。眩暈四重奏団とは中々刺激的なネーミングセンスで、本当に眩暈でも起こしたかチェロと第2ヴァイオリンのパート譜が取り違えて置かれ、演奏開始前にコソコソ入れ替えて笑いを取っている。






