アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』を読む
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最近、このブログに見えられた西洋古典文学館さんのアンミアヌス・マルケリヌス『歴史』が興味深い。ただいま翻訳されている第20巻では、ユリアヌス帝の事績が記されており、この人は「背教者ユリアヌス」として知られており、同名の小説が出た事もあったローマ皇帝。
皇帝になる前はガリア(今のフランス)に居たのを呼び出され、ガリア軍を率いて上京し皇位を簒奪し、前帝の業務を引き継いでサーサーン朝ペルシアとメソポタミアで戦い、その地に倒れた人である。
ガッリア Gallia は、概ね今のフランスとその周辺。ラテン人(=ローマ人)は、アルプスのこっち側(今のイタリア北部)を Gallia Cisalpina(アルプスよりこっち側のガッリア)、向こう側を Gallia Transalpina(アルプスより向こうのガッリア)と呼んだ。ガッリア・キサルピナはローマ属州となるに及んでガッリアとは呼ばれなくなり、次にローマ属州となったガッリア・トランサルピナは、アウグストゥスの時代にGallia Narbonensisと改名。今の南フランスに当たる。Provence地方と呼ばれるのも、ローマの属州(Provincia)であったことから。

紀元前58 〜 51年にガイウス・ユリウス・カエサル(英語読みジュリアス・シーザー)が制圧した「ガッリア」は、「ケルト族」「ベルガエ族」「アクィタニア族」に三分されるということで、ローマ属州もGallia Celtica、Gallia Belgica、Gallia Aquitaniaに三分される事となった。
但しこの「ケルト」は、ラテン人から見た「未知の人」くらいな意味で、「ケルト文化の担い手」なんてイメージはなかったらしい。ちょっと残念。
『歴史』第20巻は、ブリタニア(今のイギリス)情勢に、ユリアヌスが悩むところから始まる。
コンスタンティウス帝が10度目、ユリアヌス帝が3度目の執政官職にあった頃、ブリタニアでは、スコット人およびピクト人の野蛮な部族が協定された平和を破り、辺境に隣接する地域を荒らし回っていた。過去の災禍の積み重ねにより疲弊していた諸属州は恐怖に陥れられ、パリで冬営していたカエサル(ユリアヌス)は、様々な心配事に心を乱されていた。彼は、かつてコンスタンス帝がしたと我々が記したように、海の向こうへの救援に向かうことをためらっていた。それは、ガリアを統治者なしで放置することのないためであった。
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ブリタニアは、ブリテン島全域ではない。北部、つまりスコットランドは含まれていない。「ハドリアヌスの壁」を築いて防いだくらいでは、スコット人は止まらなかった。
それでもローマ帝国属州から出兵し、ある程度は統一し、ロンドンの原型 Lundiniumを築き、道路まで引いたのだから大したものだ。
ペーター・マークはスイス出身で、アンセルメとフルトヴェングラーに師事した指揮者であるから、彼自身はスコットランドと毛筋ほどの関係もないけれど、そこは大目に見てほしい。
ジェームズ・ドゥーアンはカナダ出身だが、スコッティの役を演じたので、その役の方で見てほしい。
こうしてみると、ローマ帝国は広かった。西は今のスペイン・モロッコから、東はメソポタミアまで延びている。その中では、ガッリア諸州はローマからさして離れてはいない。

引用文中「パリ」とあるのは、たぶん「ルテティア Lutetia」をうっかり翻訳してしまったのだろう。当時は未だ「パリ」ではなかった。ルノー・クリオを輸入するに当たり、ホンダクリオの商標を避けて「ルーテシア」と改名したのも、Lutetia のことである。

こうしてみるとパリ/ルテティアは、フランス国中でも北寄りだな……冬営するには寒そう。しかしその分、ブリタニアには近い位置にあるから、上陸作戦を支援するには向いているのか。
それゆえ、これらの事態を理性によってか、あるいは武力によって解決するために向かうことについて、当時軍務長官であったルピキヌスが適任とされた。彼は確かに好戦的であり、軍事の事柄に熟練していたが、角のように眉を逆立て、(彼らが言うように)悲劇の厚底靴を履いて大言壮語するような男であった。彼について長く疑問視されていたのは、貪欲であるか、あるいは残忍であるか、そのいずれかであった。
こうして、アエルリ族とバタウィ族、そして二つのモエシア軍団からなる補助部隊が動員され、厳冬期に前述の将軍はボノニア(ブローニュ)に到着した。彼は船を探し出し、全ての兵士を乗船させると、順風を待って対岸にあるルトゥピアイ(リッチバラ)へと運ばれ、ルンディニウム(ロンドン)へ向かった。そこから事態の性質に応じて協議を行い、迅速に戦闘準備へと急ぐためであった。
ルンディニウム Londinium は上の地図でも確認できる、ロンドンの古名。随分古くから栄えていると感心するが、選択の余地がなかったとも考えられる。ブリテン島南端近くでも北緯51度では、農地の生産性は昔から低かったであろう。ちなみに北極圏は北緯66度33分線以北、日本の東京は北緯35度。東京と同緯度まで下るより北極圏の方が近いのだから、さぞ寒かろう。
北極圏に近いロンディニウムから、話はいきなりメソポタミアに飛ぶ。
このようなことが行われている間に、アミダ包囲戦の後、首席歩兵長官として皇帝(コンスタンティウス2世)の陣営に戻ったウルシキヌス(我々はすでに彼がバルバティオの後を継いだことを述べた)を中傷者たちが待ち受けた。彼らは最初、辛辣な噂を広め、次には公然と捏造された罪状を連ねていった。
皇帝は彼らの言葉に同意し、多くを憶測によって判断し、陰謀を企む者たちに耳を貸した。彼は、アルビティオと官房長官フロレンティウスを調査官に任命し、(アミダの)町がなぜ陥落したのかを調査させた。
しかし調査官たちは、明白で信頼に足る理由を拒否し、もしサビニアヌスの頑固な怠慢によってこれらの事態が起こったことを明確に示す証拠を受け入れたなら、宮廷長官エウセビウスの機嫌を損ねることを恐れた。彼らは真実から逸脱し、案件とはかけ離れた、取るに足らない事柄をいくつか調べていたのである。
この不公平さに憤慨した審問を受ける者(ウルシキヌス)は、「たとえ皇帝が私を軽蔑しようとも、この事柄は、皇帝自身の裁断によってのみ知られ、処罰されるべき性質のものである。しかし、あたかも予言のように知っておくべきである。彼(皇帝)がアミダで起こったことについて真実を知り悲嘆に暮れている間、そして宦官たちの意のままに引きずられている間は、来るべき春にメソポタミアが荒廃に晒される際、彼自身も全軍の戦力をもってしても、自らそこに居て助けることはできないであろう」と述べた。
阿弥陀如来を包囲戦とは罰当たりな、という訳ではなく、メソポタミアの都市だそうで。
今では Diyarbakır という都市になっており、メソポタミアといっても上流側、アナトリアの東にあって、ティグリス川の右岸になる。もともとアナトリア半島をアジア(小アジア)と呼んだので、ローマ帝国の領域はアジアにまで及んでいたことになり、後世のヨーロッパ人がアジアを地の果てのように見ていたのとは随分と扱いが違う。『償ひの道、あるいはハンムラヒの法典』を訳した身としては、メソポタミア遠征はとても気になる。
メソポタミアの一地方として見ると、嘗てのアッシリア北端に近い。といっても往年の勢いはなく、当時はサーサーン朝ペルシアに属した。だからローマ帝国が相手にしたのはサーサーン朝なのだが、ローマ人はこれを前政権と区別せずパルティアの名を以て呼んだから、読み替えが必要になる。
- バビロニア:1894 BC-539 BC
- ヒッタイト:1680 BC-1178 BC
- ミタンニ:c.16C BC-1330 BC
- アッシリア:1975 BC-609 BC
- 新バビロニア:625 BC-539 BC
- アケメネス朝:539 BC-330 BC
- アレクサンドロス大王:330 BC-323 BC
- セレウコス朝:312 BC-2C BC
- パルティア:c.248 BC-226
- サーサーン朝:226-651
と遷り代わる。ヴェルディ『ナブッコ』の元ネタになったネブカデネザル2世(Nebuchadnezzar II, 642 BC - 562 BC)は、新バビロニア王。
メソポタミア遠征のお鉢は、ガッリアに居たユリアヌスに回ってくる。
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偵察兵に協力する亡命者たちが示していたように、間もなくペルシア人の襲撃によって混乱が生じるため、急ぎ東方へ援軍を送ろうとしていたコンスタンティウス帝を、ユリアヌスの功績は苛立たせていた。彼の功績とは、アラマンニ族のいくつかの王国を打ち破り、以前蛮族に略奪され破壊されていたガリアの都市を奪還し、それらの蛮族に貢納させた後で、その偉大な労苦と業績の輝かしい栄誉が様々な民族の口を通じて広く伝わっていたものであった。
アラマンニ族とは、フランス語に於けるドイツ人である。元はアルプスの北、ライン川上流域をアルマンと呼んだものらしい。今のフランスに侵攻した、後のドイツ人を、今のイギリスの維持に悩むローマ人ユリアヌスが退けたということになるのは、本邦で言う戦国時代を昔からやっていたようなもの。第二次世界大戦はその総決算であったが、現ロシアの行動に鑑みれば、世界の一部は未だに戦国時代を続けていると言わざるを得ない。

なお、ドイツは長らく「神聖ローマ帝国」であり、その実態は諸侯国の寄せ集めであり、これを統一して「ドイツ」と呼ぶようになったのは近年のことである。
これらの事柄や類似の事柄に動揺し、それらがさらに増大することを恐れたコンスタンティウス帝は、伝えられるところによれば道長官のフロレンティウスの煽動を受け、将校秘書官デケンティウスを派遣した。デケンティウスは、ヘルリ族とバタウィ族、ペトゥランテス隊のケルト人、そして他の部隊から選抜された300名の兵士たちを直ちにそこから引き抜く任務を負っていたのである。これら兵士たちは、早春にパルティア人に対して動員される軍に間に合うようにという名目で、急ぐよう命じられていた。
補助兵と300名の兵士を急速に出発させる件については、ルピキヌスがただ一人召集されたが、彼がブリタンニアへ渡ったことはまだ確認されていなかった。一方、皇帝厩舎管理官シントゥラは、近衛盾兵隊とゲーンティレス隊から最も敏捷な者を選抜し、自ら引き連れていくよう命じられた。
カエサルはこれらに対し沈黙し、より上位の者の裁量に全てを委ねて承諾した。しかし、次の点については、彼は隠すことも沈黙することもできなかった。ライン川の向こう側の故郷を捨て、アルプスを越えた地域へ決して導かれないという盟約の下に来た者たちが、いかなる困難も被らないようにという主張である。彼は、そのような法の下で我々の領土に移住することに慣れている志願兵の蛮族たちが、このことを知って以降、妨げられることを恐れる必要がある、と主張したのであった。しかし、彼の言葉は無駄であった。
誤訳もあるのか、やや首をひねる箇所がある。
- 「ライン川の向こう側の故郷」とは上記地図から見て「ライン川上流域にある故郷」ではあるまいか
- 「アルプスを越えた地域へ決して導かれないという盟約の下に来た者たち」という生硬な訳文は、「アルプスの向こうへ連れて行かれることはないと堅く約束された者たち」と改訳を提案
- 「しかし、彼の言葉は無駄であった」とは、日本語表現として「しかし、彼の言葉は聞き入れられなかった」とすべきものではあるまいか
ただ、ユリアヌスが何を気にしていたかは明白で、ガッリア軍団をメソポタミア遠征に使うと約束破りになってしまう。それ以外は上位者の裁量に委ねたというのは、そもそもコンスタンティウス帝の命令によりガッリア軍団の指揮権を持っているのだから、その命令に背くことはできない。しかし道長官フロレンティウスは、この約束破りが悪いとは思わなかった、という糾弾が以下に続く。
トリブヌス(デケンティウス)はカエサルの不平を軽んじ、アウグストゥス(コンスタンティウス)の命令に従った。そして、体力と身体の軽さにおいて優れた、より機動的な部隊を選抜し、より良い未来を期待して鼓舞された彼らと共に、出発した。
ユリアヌス・カエサルは、残りの指令をどう処理すべきかについて心配し、様々な懸念に心を巡らせていたため、慎重に事態を処理すべきだと考えていた。一方では蛮族の残忍さ、他方では命令の権威が迫り、特に騎兵長官(ルピキヌス)の不在が疑念を増大させていたため、彼はかつて食糧調達の名目でウィエンナへ出発し、軍務の煩わしさから身を引いていた道長官(フロレンティウス)を自分のもとへ戻るよう促した。というのも、道長官は、かつて彼が送ったと考えられている報告書に従い、ガリアの防衛から、既に蛮族に恐れられている強力な部隊を引き抜くことを検討していたためであった。
カエサルの書簡を受け取ると、道長官(フロレンティウス)は、国務を助けるために急いで来るよう勧告され、懇願されていたにもかかわらず、断固としてこれを拒否した。彼の心は恐怖で混乱していたためである。書簡は、恐ろしい事態のさなかにおいては、道長官は皇帝から決して離れるべきではないと明確に示唆していたのである。さらに、もし彼が(職務を)怠っていたならば、自ら進んで最高の地位の記章を投げ捨てるべきであり、諸州の滅亡を自分の責任とされるよりも、命令された死に直面する方が名誉である、と付け加えられていた。しかし、合理的に要求されていた事柄に従うことを最大限に激しく拒んだ道長官の頑固な決意が打ち勝ったのである。
しかし、ルピキヌスの不在によるこれらの遅延と、軍事的動乱を恐れる道長官(フロレンティウス)のために、カエサルは助言の助けを失い、二つの選択肢の間で揺れ動いていた。彼は、冬営していた駐屯地から厳粛に全員を出発させ、急がせることこそ最善の策であると考え、そのように手配した。
「道長官フロレンティウス」が何処に何の地位で居たのか、よく解らない。上記ではコンスタンティウス帝の側近だったように読めるのが、ここではユリアヌスの部下のように書いてある。「拒否した」とは、コンスタンティノープルから動かなかったということだろうか?「ワシは動かないぞ」と返信したのだろうか?何れにしても、道長官フロレンティウスが動かないのを見て、ユリアヌスは冬営地ルテティアからの移動を決定。しかしそうなると、ガッリア軍団が黙ってはいない。
このことが明らかになると、ペトゥランテス隊の陣営で、ある者が密かに侮辱的な小冊子を地面に投げ捨てた。その小冊子は、他の多くの事柄の中でも特に次の内容を含んでいた。「我々は罪人と断罪された者のように、世界の果てへと追いやられている。しかし、我々の愛する者たちは再びアラマンニ族の奴隷となるであろう。我々は激しい戦いの後、最初の捕囚から彼らを解放したというのに。」
「小冊子」とあるのが気になって、少し調べてみた。紙の発明以前の時代に、冊子本があったのか?それが有ったのだ。
最初の冊子本として実証できるのは、紀元1世紀に帝政ローマ時代のエピグラム詩人のマルティアリスが刊行したものである。この詩人は最初に出した巻子本による詩集の中で、旅行の時に持ち歩くのに便利な小型の冊子本でも自分の詩は読むことができる、と書いている。
紙の本ではなく、羊皮紙を綴ったものだったようだ。正式な書類としてはパピルスを使った巻子本が重んじられ、羊皮紙の冊子本は地位が低かった。しかし同じく地位が低かったキリスト教徒のものとなり、キリスト教徒が実権を握るにつれ、地位の逆転が起きた。
一般に知られているように、キリスト教はローマ帝国の東方辺境に出現し、ペテロ・パウロなどの使徒の活動によってローマ帝国の下層民の間に広がった宗教である。そのため帝国の社会的地位の高い人々からは嫌われていた。このことと冊子本の普及との間には、密接な関係があるのだ。
キリスト教徒下層民に対しては、帝国のエリート層は反発していた。そのため下層民のほうも上流層に対しては意識的に距離をとって、その行動も違ったものになっていた。そして初期のキリスト教徒は自分たちの信仰を広める手段として、上流層の間では常識になっていた巻子本ではなくて、冊子本を選んだといわれている。つまりキリスト教徒にとっては、当初から冊子本こそ自分たちが選んだ書物の形態だったのだ。
冊子本は、上に挙げたような多くの利点を持っていたにもかかわらず、直ちに伝統的な巻子本にとってかわったわけではない。そのためにはローマ帝国の政治・経済・社会情勢の大きな変化が必要であった。ローマ帝国は、後2世紀末から後3世紀にかけて、さまざまな危機的な状況に陥った。属州反乱の頻発、ササン朝やゲルマン人との戦いなどが重なり、経済混乱も生じて社会不安に至った。また政治的にも軍人皇帝の時代という混乱期でもあった。
こうした経緯を経て、コンスタンティヌス帝によって、後313年、キリスト教が公認されることになった。それに伴って主としてキリスト教徒がかかわってきた冊子本が、従来からの巻子本にとって代わったわけである。およそ二百年にわたった巻子本と冊子本の競合状態に終止符が打たれた。そして古い古典古代の担い手の中から生まれた新たな形の書物(冊子本)が、それに続くヨーロッパの中世を経て、今日の私たちの書物の形態として定着したわけである。
うーん。世界中の書物全てがヨーロッパ発でもあるまいに……わが国の書物は、おそらく中国由来で、木簡・竹簡が元になる。木簡・竹簡を革紐で綴ったから、今なお「書を紐解く」という。世界最古の書物はメソポタミアの粘土板で、それを集めた図書館が火事になっても、粘土板だから焼物になって却って丈夫になったとか、こういうのを「大丈夫だ」というのか……
寄り道はこれくらいにして、『歴史』に戻る。
その文章が宮廷に届けられ、読まれると、カエサルは、その合理的な不平を考慮し、彼らが家族と共に東方へ出発すること、そして移動の自由を許すことを命じた。そして、彼らがどの道を進むべきかについて長らく議論された後、将校秘書官デケンティウスの提案により、カエサルがまだそこを動かずに滞在していたパリシオルムのルテティア Lutetiae Parisiorum を経由して全員が進むことが決定されたのである。そして、そのように実行された。
Lutetiae Parisiorum (パリシイ族の沼沢地)という言い方があったのは知らなかった。
パリシイ族の存在も知らなかった。この人たちが居なければ、パリはパリという名になっていなかったのか。
パリシイ族の金貨に見られる愉快な顔立ちは、現パリジャンとの違いを誇るかのようでもある。

見方を変えれば、早くから国際化が進んでいた都市だとも言えよう。アメリカ合衆国本国より、黒人ジャズマンに好意的だったところでもある。思えば、近年の頑なな態度が残念でならないが……
思っていた通り情報量が増え、思っていたよりずっと長くなってしまったので、今回はここまでとする。続きはそのうち。

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