- ジョン・コルトレーン ジャイアント・ステップス
- サンダーバード・マーチ
- ガーション・キングスレイ ポップコーン
- レーナード・スキナード フリー・バード
- モーツァルト 第40交響曲ト短調K.550 ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィル
ジョン・コルトレーン ジャイアント・ステップス
大学に上がって入学祝いに、ステレオ一式買ってもらった時には既に「モダン・ジャズは死んだ」とか言われていて、乗り遅れた感一杯だったけれど。まだジャズ喫茶はあちこち残っていて、デカいスピーカーを高らかに鳴らす良さも味わえた最後の世代だったかもしれない。自分が買ったのはステレオ盤だったが、これに限らず、トレーン先生のレコードは中々思うように鳴ってくれなかった。特にスマートフォンなんかで聞くと、ともすれば古ぼけた音に聞こえてしまうので、モノラル盤の方がまだマシだろう。あなたがオーディオマニアなら、ステレオ盤でも、苦労するだけの価値はある。
サンダーバード・マーチ
番組の開始と終了で少し違い、短縮版と長尺版があって、短縮版は色々省略されて寂しかった。と覚えていたのだが、日本語版は色々継ぎ足して作られ、短縮版と思っていた方が正式だったようだ。幼稚園にプールがあったので、サンダーバードの浮き輪を買ってもらった覚えがあるから、放映開始は1967年頃だったか。八幡製鐵所の職工で新物好きの父が、給料を工面して初めて買った真空管式テレビが白黒だったのに、この作品はフルカラーなのを後で知って、さすが戦勝国と驚き呆れた。サンダーバード及びファイヤフラッシュ号の動力は原子炉なのがまた、時代である。米ソが宇宙開発の先陣争いをしていた時期でもあり、子供も大人も夜になると「宇宙時代の到来だ!」と星空を見上げたものだ。その憧れを形にしたような作品だったから、プラモデルを始めそれはもう売れに売れたというより社会現象になり、「客を取られる!」と焦った円谷プロが『マイティジャック』を作り『ウルトラセブン』にメカ描写を採り入れたとか。まだ街灯は少なくアパートの上に架かる星座を探せたくらいで、工場が7色の煙を上げていたとはいえ、それが空を覆うのはごく一部の地域だったように思う。
ガーション・キングスレイ ポップコーン
サンダーバード操縦士の名はマーキュリー計画の飛行士から拝借したものだが、実際に月へ行くなんて遠い未来と思われていたから、舞台は21世紀の設定。なのに、小学校に上がった1969年、アポロ11号が月に着陸したから、それはもう大騒ぎ。中継映像がテレビで流れ、何だかボコボコした格好悪い形のものが、これまたボコボコ穴の開いた世界をスーッと滑って行く… とまでしか記憶にない。見ながら寝落ちしてしまったらしい。肝心要のときに眠くなる悪癖は、どうやらこの時には始まっていたのか。で、その年にムーグ・シンセサイザーを使ったこの画期的な一曲が世に出た筈なのだけど、これまた80年代になるまで記憶にない。さっそく輸入した冨田勲氏が税関で止められ
「これは何だ?」
「楽器だ」
「楽器なら音を出してみろ」
「このままでは音は出ない」
と、ムーグの扱いにたいそう苦労なさった思い出を、何処かのラジオ番組で語り遊ばされ、しかし何という番組であったかは、もう覚えていない。
レーナード・スキナード フリー・バード
これは彼等のデビュー・アルバムで、バンド名 Lynyrd Skynyrd そのままな筈が。ひねりまくった書き方が一般ピープルには読めないであろうと御丁寧にも(Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd)と、愚民どもに読み方を教えてやったところ、何故かそっちがアルバム・タイトルになってしまい、幾ら "Lynyrd Skynyrd" で検索しても出てこないという悲劇のアルバム。この変な名前は、メンバーが通った高校で、だらしなく髪を伸ばしたロックンロールな身形を厳しく咎めた、レナード・スキナー先生の名から捻り出したものという。その割にはスキナー先生を演奏会に招待し、先生もこれに応じたというから、仲は悪くなかったらしい。
別のアルバム Second Helping 収録の Workin' for MCA という、そのまんま「MCA(レコード会社)にお勤めしてんだぜェェ」と自慢だか自虐だか微妙な愚痴を延々聞かせるのが、レーナード・スキナードの曲の中では好きなのだが、まあそれは置いておくとして。このファースト・アルバムのトリを飾るこの曲が、その後の演奏会でもトリを飾る曲となったのは、なるほど鳥を歌った歌詞ではあるけれど、真相は別のところにある。ファンなら説明不要だし、ご存知ない方には説明するだけ無駄なので、まずは最後までお聞き頂きたい。
モーツァルト 第40交響曲ト短調K.550 ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィル
大学に上がって次の年から、我が家は家庭崩壊の危機を迎えた。その次の年には登校も難しくなり、その頃に寄り添ってくれたのは、中島みゆきとブルーノ・ワルターさんの音楽だった。
世界三大指揮者に数えられたワルターさんだが、大抵はヴィルヘルム・フルトヴェングラーの次か、アルトゥーロ・トスカニーニの次になっていたのに対し、小生にはワルターさんが一番。本名はシュレディンガー、その名が示す通りユダヤ人であったから、ナチス党が政権を獲るとベルリンから追い出されてしまった。逃げ出した先のウィーンではグスタフ・マーラーと知り合い、フルトヴェングラーと人気を二分したけれど、オーストリアがドイツに併合されウィーンにも居られなくなり、フランスに移る。でも、フランスもドイツに敗けたので、結局は合衆国に渡る。この録音は終戦後、ウィーンに来たときのライヴで、それだけに思いのこもった拍手を浴びている。