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ハーメルンを含むザクセンとトランシルヴァニアの繋がり

R・ブローニング『ハーメルンの斑な笛吹き』では、子供たちがトランシルヴァニアへ行ったかのような結末になっている。いくら何でも、これは無理が有り過ぎる。と、読者諸賢には感じられたであろう。

ところが、事実は小説より奇なり。実際にトランシルヴァニアへ移住したザクセン人集団があり、嘗てはトランシルヴァニア・ザクセン人として、特権階級を構成していたことがある。ザクセン人と呼ばれながら、多くはフランケン方言を話していたとも。
そしてハーメルンは、ニーダーザクセン(低地ザクセン)州に属する、れっきとしたザクセン(英語読みサクソン)の一部である。

『ドラキュラ』作者ブラム・ストーカーが参考文献に挙げた『トランシルヴァニアの迷信。TRANSYLVANIAN SUPERSTITIONS.』の作者エミリー・ジェラルド Emily Gerard は、その本をより広範に詳細に記述し直した『森の彼方の国。The Land beyond The Forest.』2巻本を著しており、これは今まで邦訳が無かったため、目下「小説家になろう」に於て翻訳中である。既訳の第1巻に、トランシルヴァニア・ザクセン人についての記事があるので、引用して紹介しよう。

まず第5章 ザクセン人の歴史的饗宴、及びその伝説。SAXON HISTORICAL FEAST—LEGEND.では、

私がヘルマンシュタットに到着したのはたまたま、その都市を建設したドイツ人入植者たちよりも正確に700年後だったので、私は幸運にも、特別に興味深い性格の国民的祭典を手伝うことができた。

古い年代記によれば、この町が建設されたとき、流浪の民は、現在この町が建っている広大で肥沃な平原に到着すると、2本の剣を十字に地面に打ち込み、自分たちをここに呼び寄せた君主の忠実な臣下となり、自分たちに避難所を与えてくれた土地を守るために、精一杯の心血を注ぐことを誓ったという。この誓いが記された2本の剣は大切に保管され、1本はブルースへ、もう1本はドラースへと送られた。しかし、この地を襲った邪悪な時代と、荒廃させた戦争と流血の結果、片方の剣(ブルースの剣)は失われてしまった。しかし、もう一方の剣は今もドラースの教会で見ることができると言われている。この剣は人の身長ほどもあり、このことから、ザクセン人移民は発育の良い頑健な男であったと考えられる。

この町の名の由来となるヘルマンとは誰なのかは、推測するしかない。…

古い年代記によれば、ハンガリー王シュテファン1世がドイツ王アンリ2世の妹ギゼラと結婚したとき、彼女の一行としてニュルンベルクからトランシルヴァニアに貧しいヘルマン男爵とその家族がやってきた。

最初の入植地は1202年に形成されたと言われており、また、ヘルマン男爵は125歳まで生き、有名で強力な民族の祖先であったという。…

このような矛盾した記述の数々を目の前にして、ヘルマンシュタットが1184年に正確に建設されたと考えるには、(私が知る限りでは)それほど確かな根拠はないように思われた。しかし、どうやら誰もがそのように考えていたようで、その日を記念して仮装行列が行われることになり、その準備のために静かな小さな町は何週間も前から熱気に包まれていた。

その土地の商人たちはみな突然気が狂ったかのようになり、7世紀もの間海外に駐在していた「威信」を先祖に持たない平凡な人間の日常的な欲求に応える気には到底なれないようだった。…

彼らの祖国を見たことのないドイツ人、ライン川の青いせせらぎを見ることもないであろうラインラント人が、このような愛国心の誇示によって深い独特の印象を受けたことは、筆舌に尽くしがたい。…

ナデシュ村では、毎年特定の日になると、若者たちがみな巡礼者に扮し、毛織物の長い衣服に縄の帯を締め、手にはずっしりとした杖を持つ。こうして、彼らは旗の周りに集まる。由緒ある老人が先頭に立ち、太鼓を打ち鳴らし、詩編を歌いながら通りを行進し、時折、特に広い中庭に入り、そこで踊りが披露され、軽食が振る舞われる。牧師を訪ねるのもお決まりで、行列は村の端から端まで一周した後、夕暮れ時に解散する。この習慣の意味を尋ねると、人々はこう答える、

「我等の父祖は、我等と同じ自由民として、ザクセンからこの地にやってきた、旗と太鼓を掲げ、手には杖を持って。この風習は我等が発明したのではなく、先祖が発明したのでもなく、代々受け継がれてきたものであり、私たちもまた、この風習を子々孫々まで受け継いでいきたいと願っている。」

このドイツ人たちが、どのようにして自国から何百マイルも離れた場所に住みつくようになったのかについて、数多ある中でも『ハーメルンから消えた子供たち』ほど、かわいらしく、示唆的な物語はない。

ブラウニングの詩によってイギリスの読者にも知られるようになった、ドイツの有名な伝説である。

「1284年のことである。❨と物語は始まり)ヴェストファーレンの小さな町に、奇妙な出立ちの人物が現れた。色とりどりの布のコートを着て、ネズミ捕りを名乗り、ある金額で町からネズミを駆除すると約束した。交渉が成立すると、ネズミ捕りはポケットから小さな笛を取り出し*1、吹き鳴らし始めた。すると、すべての納屋、馬小屋、地下室、小屋から、おびただしい数のハツカネズミやらドブネズミやらが出てきて、他所者男の周りに大群で集まり、彼の音楽に夢中になった。
こうしてその地の害獣がすべて集まったので、笛吹きは演奏を続けながらヴェーザー川のほとりに進み、ズボンを膝上まで捲り上げて水の中に入っていくと、盲目的について行ったハツカネズミやらドブネズミやらは流れに呑まれ溺れてしまった。
しかし、ハーメルンの町人たちは、こうして自分たちが簡単に疫病から解放されたのを見て、大金の約束を後悔し、よそ者が労働の報酬を要求するたびに、さまざまな言い訳をして支払いを先延ばしにした。*2
ついに笛吹きは怒り出し、無礼な振る舞いをした町を罵りながら立ち去った。しかし、彼は猟師に扮し、高い緋色の帽子をかぶり、近所に出没するのを目撃された。聖ヨハネの祝日である6月26日の明け方、ハーメルンの通りで再び彼の笛のけたたましい音が聞こえた。今度はハツカネズミもドブネズミもその呼びかけに応じなかった、すべての害獣はヴェーザーの水の中で死んでしまったからだ。しかし、幼い子供たちは家々から飛び出し、親の腕の中からもがき出て、不吉な笛吹き男の後を追わずにはいられなかった。こうして彼は、幼い子供たちの行列を隣の丘のふもとまで導き、おびき寄せた子供たちとともに丘の中へ消えていった。その中には、ハーメルン市長の娘もいた、驚くほど優美で美しい乙女だった。小さな子供を抱えたまま、やむなく行列に加わった子守は、最後の瞬間に自分を引き離すのに十分な力を見つけ、息も絶え絶えに急いで町にたどり着き、遺された両親に悲しい知らせを伝えた。また、シャツ一枚で外に飛び出した一人の少年も、寒さを感じて上着を取りに戻り、同じように仲間の運命から救われた。丘の中腹に戻ったときには、開口部は閉ざされ、謎の笛吹きも、追い縋った130人の子供たちも、跡形もなくなっていた。」*3

また、心を痛めた両親によって再び発見されることもなかった。…ところが、その頃トランシルヴァニアに現れたドイツ人たちこそ、ハーメルンの迷子にほかならないという俗説がある。彼らは、地下道を通って長い旅を終え、トランシルヴァニアの北東にあるアルメッシャー・ヘーレと呼ばれる洞窟の入り口から再び日の目を見たのだと。

第6章「ザクセン人。性格・教育・宗教 THE SAXONS: CHARACTER—EDUCATION—RELIGION.」では

ザクセン人の学校に居る教授が教養のある聡明な人物であるからといって、学校そのものを支持する保証にはならない。というのも、ここにはもう一つの動機が働いているからである。すなわち、大学を経て、公立のギムナジウムで数年間修行しなければ、牧師になることを志すことはできない。このような場所は非常に儲かるので、少なからぬ連中が押し寄せる。今のところ、ほとんどの若者は以前と同じように、ハイデルベルク、ゲッティンゲン、イエナといったドイツの大学へ留学する。鉄道が発達していなかった時代には、10週間から12週間もかかる旅の苦難に立ち向かうには、相当の覚悟が必要だったに違いない。この事業はもっぱら、次のようなやり方で行われた。

まず、進取的なルーマニア人農夫が、材木を積んだ荷車などに、12頭〜14頭の馬を繋ぐ。知識に飢えた十数人の学生をこれに乗せて、800キロか900キロも離れたドイツの大学都市に向かう。半年ほどしてトランシルバニアに戻るとき、別に学業を終えた若者たち一団を連れて帰るのである。

我々が気になることを、既にジェラルド女史が聞いてくれていたお陰で、ザクセントランシルヴァニアには、ハーメルンの政変以前から交流があったと解る。ハーメルンは四方に道路がある、交通の要所であったから、ここを通過する商人や学生もあったのであろう。ダメ押しのように、宗教改革についても

他のあらゆる点で厳格な保守主義を貫いてきたザクセン人が、それにもかかわらずなぜ宗教を変えたのか。単なる模倣精神だけでは説明がつかないように思われるし、電信や電話がまだ知られていなかった時代に、ルターの声がこのヨーロッパの片隅に届くはずもない。しかし、宗教改革以前から、サセルドース(聖職者)を目指す者たちは皆、学業を完成させるためにドイツに渡っていたことを思い出せば、この謎を解くのは極めて簡単で、直ぐそこに答えがある。この子達が改革の伝染病に罹り、本部から新鮮な伝染病を持ち帰り、事実、偉大な改革者の声をヨーロッパの端から端まで伝え、若者の熱意と炎をもって彼の教義を広める、生きた電話のような役割を果たしたのである。

というから、我々が無理だと考える距離でも大名の参勤交代同様、それなりの用意があれば往復可能だったのだ。ブローニングがどの程度、このことを知っていたかは、我々の知る由もないけれど、決して根拠のない妄想ではなかったと言えよう。非常に暗い結末が印象に残るこの物語も、そう陰惨な顔ばかりするものではなく、ハッピー・エンドになった可能性もある訳だ。ハッピーエンド。このことを強調して、この項を終る。

*1:ポケットに収まる小さい笛が訳者には想像できず、何かの間違いではないかと長らく疑っていた。ところが、大束晋氏が紹介する魔笛パパゲーノの笛は、掌に収まるサイズで、これは正確な表現というべきである。

*2:一説には、魔法使いまたは魔女であると知れたので、キリスト教徒として拒否した

*3:この物語はグリム兄弟『ドイツ伝説集』#244ハーメルンの子供たち DER KINDER ZU HAMELINによる