Spirited Away: Dream Work, the Outsider, and the Representation of Transylvania in the Pied Piper and Dracula Myth in Britain and Germany
サム・M・ジョージ Sam M George
萩原 學(訳)
- 訳注:
- 以下は ACADEMIA(要登録) にある Sam M George 先生の論文を、ご本人の許可を得て翻訳公開するものである。豊富な文献を参照しているため、ポインタ集としても便利な筈だが、訳者も全ては存在を確認できておらず、邦訳されたものはごく少数に過ぎない。原文はルーマニアのUniversity of Timisoara に於ける2015年 'Education, Beliefs and Cultures'カンファレンス用の原稿ということで、著作権を考慮し、原文の転載は差し控える。また、著者の許可なくしての転用は著作権法に触れる恐れあり、慎まれたい。
ドラキュラ伯爵と斑な笛吹きは、いずれも19世紀文学において最も強力な原型であるが、互いに関連して考察されることはほとんどなかった*1。
斑な笛吹きの物語は、グリム兄弟によって「Die Kinder zu Hameln(ハーメルンの子供たち)」として『Deutsche Sagen』(ドイツ伝説集、1816-18年)に発表され、後に1842年のロバート・ブローニング『Dramatic Lyrics(劇的なる抒情詩集)』で、「The Pied Piper of Hamelin(ハーメルンの斑な笛吹き)」として、英語の詩になった。
また、1894年にジョセフ・ジェイコブスが出版した『More English Fairy Tales』には、「The Pied Piper of Franchville(フランシュヴィルの斑な笛吹き)」という英語版も収録されている*2。
ハーメルンは製粉の町であり、穀物を貯蔵する中心地であったため、ネズミの出没する可能性は高かった。ブローニングでは、子供たちがトランシルヴァニアに連れて行かれたことが示唆されるとともに、ねずみの役割が物語の中心になっている(ジェイコブズにはない)*3。
ドイツからルーマニアへの移住と死霊術による移送は、これから述べるように、子供たちの失踪に関して有り得る説明とされている。
グリム兄弟の『斑な笛吹き』はドイツ独特の物語だが、ブローニングがこの物語を英語で書き直したことで、その姿はドイツ、ルーマニア、英国を結ぶ隠喩上の交差点に移され、再配置された。この移動の影響と、子供たちの目的地とされるトランシルヴァニアの意味を探ってみたい。ドラキュラ神話との類似点を挙げてみると、映画という媒体を介して、小説中のイギリス及びルーマニアから、ドイツに齎された。ここに採用している歴史主義的な方法は、民族性と異人性に関して示唆に富んでいる反面、改変再話を重ねるごとに問題が積み重なるのは避けられない。議論の最終段階では、このアプローチは、おとぎ話のユートピア的・魔術的な力を現在に取り戻すという願望に取って代わられる。
ブローニングの笛吹きは、「吸血コウモリの化け物めいた群れ」(92行目)を「手懐けた」とされ、「太陽の下に生きるすべての生き物、這うもの、泳ぐもの、飛ぶもの、走るもの」を魅了することができる*4。ドラキュラも同様に、「ネズミ、フクロウ、コウモリといった卑しいものすべてに命令する」ことができる(p.221)*5。
これらの登場人物を最終的に結びつけているのは、黒魔術と迷信の故郷としてのトランシルヴァニアとの関連であり、それはこのような作品における異人化を起こす引き金として作用する。
「異人」とは、次のように考えられよう。「人一人または集団の同一性を示す記号を欠き、重んずべき対極にあるもの。異人とは、正反対とは限らず、どのような同一性にも存在する対立の前提を示すものである」*6。それゆえ、異人性の暗示は、(ドラキュラ伯爵のように)真の分身の象徴としての「異人」との出会いによって置き換えられることがある。
笛吹きは、どの版でも村人たちによって異人の扱いを受けるが(もっとも顕著なのは、ブローニング『ハーメルンの斑な笛吹き』における市長と議会によるものである)、吸血鬼としてのドラキュラは純粋に「異人」(異質で理解不可能)である。現代の読者は、異人を恐れるよりもむしろ共感する傾向が強く、この共感の変化は、ヴィクトリア朝から現代への吸血鬼像の表象の変遷に明らかである。これは、他所者(異質な異人)に対する態度の変化を反映している*7。
ヴィクトリア朝時代、吸血鬼は究極の侵略者であり、トランシルヴァニアは「政治的混乱と人種間の争い」の舞台だった*8。 スティーブン・アラタは次のように論じている。
ストーカー版の吸血鬼神話では、吸血鬼は軍事征服や帝国の興亡と密接に結びついている。ヴァン・ヘルシング博士によれば、吸血鬼は侵略の不可避な結果である。「彼は、凶暴なアイスランド人、悪魔を生んだフン族、スラヴ人、サクソン人、マジャール人の後を追ってきた」*9。
伯爵自身、自分の故郷が無数の侵略の舞台であったことを認めている。「この国では、愛国者侵略者を問わず、人の血を吸わずして豊かになった土地はない」と伯爵はハーカーに伝えている(p.24)*10。
ドラキュラがロンドンに移り住むということは、カルパチアではなくイギリスが、このような闘争の舞台となることを示している。アラタのエッセイでは、この小説は「逆植民地化というヴィクトリア朝末期の悪夢[...]」を象徴しているとされている。ハーカーは、半悪霊が王国中に蔓延し、身体と土地を無差別に植民地化していく様子を思い描いている。*11
このように読むと、この小説は、異質な他者による侵略への恐怖から生じる疫病的な不安から生まれたように見える*12。
F・W・ムルナウの映画『ノスフェラトゥ』(1922年)では、ドラキュラ神話は1830年代のドイツの町ブレーメンに移される。そこではまた別の比喩的な疫病が発生し、今や吸血鬼のトーテム動物であるネズミが、物語をさらに結びつける(そして斑な笛吹きの物語を連想させる)。
歴史的背景は、このような作品における他者化のプロセスを理解する上で極めて重要であり、ドラキュラが反ユダヤ主義的言説のユダヤ人にますます似てくる様子に示されている。*13
ムルナウによるドラキュラ神話の再話には、ドイツ人の魂に入り込もうとする試みが見られるが、それはグリム版『笛吹き男』の物語と共鳴しているように見える。歴史化は、このようなテクストにおける他者化のプロセスを明らかにするのに役立つが、同時に魅惑の喪失にもつながる。文学をエルンスト・ブロッホのようなユートピアとして捉えるなら、それは自然や社会として私たちが直面している現実と同一ではない。ブロッホの弟子であるゲルト・ユーディングは、文学とは次のようなものだと主張している。
「この現実との結びつきが、欠乏に対する充足のようなものであるという極めて正確な意味において、ユートピアである。……
ユートピアとしての文学は一般に、想像力が経験の新たな現実を侵食するものである」*14。
加えて、テクストの分析を、それが書かれた正確な時代(ユートピアとして、文学の時間的参照形式は未来である)に限定すべきではないことを提案したい。結論として、笛吹き神話の20世紀的表現であるクリストファー・ウォレスの『斑な笛吹きの毒薬』(1998年)を検討する際に、この議論に立ち戻るつもりである。この章を通して私が読んだ作品は、こうした両義的な要素に光を当て、真実と虚構、内容と形式、文脈と解釈の間の危うい関係に開かれたものでありたい。
斑な笛吹きとドラキュラ神話の遺産は、現在でもトランシルヴァニアに関する記述の中に見出すことができる。2007年の時点で、ブロンウェン・ライリーは「トランシルヴァニアが、ルリタニアやナルニアのような架空の国だと信じ込み、ドラキュラ誕生の地としてしか知らない人は少なくない」と主張している*15。ヴィクトリア朝文学の読者には、ハーメルンの子供たちを笛吹き男が連れ去った国としても馴染みがあるだろう。トランシルヴァニア、すなわち「森の向こうの国」は、ハンガリー人がこの土地につけた表現豊かな名前であり、おとぎ話に登場しても違和感のないイメージである*16。「森の向こうの国」は、ヴィクトリア朝のイギリス人作家エミリー・ジェラルド(1849-1905)が1883年にこの地を旅し、その圧倒的な魅惑を記録した全2巻の作品のタイトルでもある。彼女の「トランシルヴァニアの迷信」に関する論文(1885年)は、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』の主要な資料のひとつとしてよく知られている。*17
なお、これらの資料は、ストーカー『ドラキュラ』(1890~97年)手書きの研究ノートに記録されている*18。
ドラキュラ伯爵の出自を説明するために、ヴィクトリア朝のトランシルヴァニアに関する記述やストーカーの資料について、多くの学術的研究がなされてきた*19。「ここはトランシルヴァニアであり、トランシルヴァニアはイングランドではない。我々のやり方はあなた方のやり方ではないし、あなた方には奇妙なことがたくさんあるだろう」と、ジョナサン・ハーカーに告げるドラキュラの科白で最も存在感を示すのはジェラルドであるが(p.23)。よく引用されるこの台詞は、ヴィクトリア朝小説の読者にとって、トランシルヴァニアが一般に神話化されるきっかけとなった。ハーカーの日記によれば、トランシルヴァニアはこの国の極東に位置し、「トランシルヴァニア・モルダヴィア・ブコヴィナの3州のちょうど境目にあり、カルパティア山脈の腹中にある。ヨーロッパで最も荒々しく、最も知られていない地域のひとつである」(p.5)。 伯爵はトランシルヴァニアをヨーロッパ人種の「渦」(p.6)と表現するが、この比喩はヴィクトリア朝末期に於けるロンドンのイーストエンドの描写からストーカーが借用したもので、迫害から逃れてきた東欧系ユダヤ人の出稼ぎ労働者が大勢住んでいる場所である*20。
トランシルヴァニアを訪れる観光客にとって、「トランシルヴァニアの大きな見どころ」はサクソン人の町や村、そして要塞化された教会であると言われている*21。 12世紀にこの地に定住したドイツ人は、ドイツの風習が一見異国の地に移植されたという、ドラキュラが語る想像力豊かな「渦巻き」のもう一つの例である。16世紀には早くも、トランシルヴァニアと、13世紀(あるいは14世紀:年代は出典によって大きく異なる)にドイツの町から姿を消したハーメルンの迷子たちとの間につながりがあった。
グリム兄弟は、19世紀にドイツの過去へのノスタルジアを鼓舞するのに大いに貢献し、彼らは際限なく神話化された。ジョイス・クリックは、「英語圏の読者にとっては、グリム兄弟自身も、ヴィルヘルム・グリムの言葉を借りれば、物語そのものと同じように、甘美な距離感に迷い込んでいるように見える」と論じている*22。
イギリスの読者は、エドガー・テイラーが翻訳した2巻の『ドイツ民衆物語』(1823-26年)など、その物語を翻訳した多くの本を通して、兄弟に親しむことになる。二人は古代の神話的なドイツの過去を取り戻そうとし、その物語を通してドイツの魂に迫ろうとした。その壮大なプロジェクトは、古いドイツの伝説、無名の叙事詩、チャップブック、物語、民謡を口承や古代の文字資料から復元することだった。これらは大雑把に|口伝《ザーゲン》と呼ばれた。はっきりしているのは、彼らが理想主義者で、古代ドイツ語や民衆詩に対する好奇心に満ちていたということだ。ヤコブは、彼らが照合した初期の素材は、民衆から純粋かつ匿名で生まれたものであり、一人の作者によって作られたものではなく、神話として歴史の中にも外にも存在するものだと理論化していた。すべては、古代ドイツ文学の歴史に回収され、統合されるのを待っていた。当初、兄弟はドイツの農民の口から直接物語を集めたと信じられていた。しかし、20世紀の研究によって、グリム兄弟がより頻繁に上流階級や文書による情報源を利用していたことが証明され、その多くは否定された。*23
ジャック・ザイプスは、このナショナリズム的熱狂を最近の兄弟の評価の中で次のように説明している。 「彼らが『ゲルマン的』と思われる物語の収集に力を注いだのは、フランスの占領に対する抗議の意思表示であり、統一されたドイツ国家を築こうとする人々との連帯の意思表示であった。実際、ほとんどの物語はヘッセンやヴェストファーレンから生まれた地方的なものだった。当時はドイツ国家など存在しなかった」*24。
ここに取り上げる|斑《まだら》な笛吹きは、このドイツの歴史的構図の一例である。
ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムの作品集では、「笛吹き男」の物語は『ハーメルンの子供たち Die Kinder zu Hameln』と題されている。ここでの要約は、D・L・アシュリマンの翻訳に負うところが大きい*25。
1284年、ハーメルンの町に謎の笛吹き男がやってきた。彼は色とりどりのコートを着ており、町からネズミを追い払えると主張する。彼は、魔法の縦笛あるいは横笛の音楽の助けを借りて、ネズミたちをヴェーザー川に導き、そこでネズミたちはみな溺れてしまう。町は疫病から解放されたが、笛吹きはその働きに対して十分な報酬を得られず、怒って町を去り、6月26日(聖ヨハネと聖パウロの日)に猟師に扮し、奇妙な赤い帽子をかぶって戻ってきた。猟師は再び街頭で笛を鳴らすが、今度はネズミではなく町の子供たちがやってくる。合計で130人が行方不明になった。
二人の子供が置き去りにされ、そのうちの一人は目が見えず、もう一人は口がきけなかった。シャツの袖を通した一人の少年も他の子供たちと一緒に行ったが、上着を取りに引き返したため、悲劇を免れた、彼が戻ってきたときには、笛吹きも子供たちも消えていた。もちろん、これは目撃者による直接の証言のように見せかける演出である。この物語では、子供たちが町の門まで連れて行かれた通りは、踊りや音楽が禁止されていることから、バンジローズ(太鼓のない、音のない、静かな)通りと呼ばれていると主張している。また、子供たちが消えたハーメルン近郊の山はポッペンベルク*26と呼ばれ、そこには十字架の形をした石碑が左側と右側に2つ建てられていることもわかった。子供たちは洞窟に導かれ、トランシルヴァニアで再び出てきたという地元の人々がいることを、グリムは特筆している。この記述によると、ハーメルンの市民はこの出来事を町の戸籍に記録し、子供たちを失ってからの年月と日数に従って、すべての宣言を日付で表すようになったという。子供たちを山に案内する笛吹きの描写が市庁舎に刻まれ、市長は1572年に教会の窓にこの物語を刻ませたという。さらに、この出来事を記念してコインが鋳造された。 このような事実と年代を根拠に、この物語を信憑性のあるものにしようとする誘惑は強い。しかし、これらの出来事が正確にいつ記録されたのか、あるいは実際に起こったのかについては、混乱も見られる。町での音楽が禁止されていた時期について言及する際、18世紀半ばから現在に至るまで話が飛ぶなど。しかし、はっきりしているのは、笛吹きへの同情はほとんどなく、彼は他所者であり、トランシルヴァニアへの旅人として除け者扱いされているということだ。
ドイツの大衆説話として Die Kinder zu Hameln(ハーメルンの子供たち)の翻訳が出たのに続き、この物語はロバート・ブローニングの『Dramatic Lyrics(劇的抒情詩)』*27で英語詩に翻訳されている。
ブローニングの出典はグリムではなく、17世紀イギリスの無名の2作、ナサニエル・ワンリー『The Wonders of the Little World; or A General History of Man』(1678年)と、リチャード・フェルステーゲン『A Restitution of Decayed Intelligence in Antiquities』(1605年)である。ワンリーでは、この話は「笛吹きによってネズミから救い出された町」であるハーメルンへの言及の下に記録されている*28。
著者は、この出来事を1284年6月26日にさかのぼる(p.633)。物語の展開はグリム童話と似ているが、結末は重要な一線を画している。笛吹きは町からねずみを追い払った後、報酬の全額を拒否され、「そこで彼は別の曲を歌い始め、130人の少年が彼の後を追って、道の北にあるコッペンと呼ばれる丘に行き、そこで彼らは死んでしまい、その後は姿を見せなかった」(p.632)。ここでは、丘の斜面が開いて子供たちを飲み込んだという描写はなく、行き先として考えられるトランシルヴァニアについても触れられていない。その代わり、子供たちが死んだという知識で、私たちは完全な終結を与えられる。このような出来事が実際に起こったと主張しようとする試みがあり、私たちは、この物語はハーメルンの年代記や書物にしっかりと記録されていると知らされる、そして教会の窓にも描かれており、「私は自分の目で見た証人である」(p.633)とワンリーは主張する。
しかし、2番目の情報源であるフェルステーゲンのおかげで、ブローニングはこの物語を詩的に再話できた。リチャード・フェルステーゲンの記述は、子供たちの失踪に関する英語での最古の記述であり、ワンリーよりも70年ほど古い。このテキストでは、「The Pide Piper」は「Of Our Saxon Ancestors」のセクションに登場する。出来事の日付は他の資料と異なっており、この物語を正確に歴史化することの難しさを示している。Wanleyとは違い、私たちは「この偉大な不思議は我等が主の年、1376年の7月22日に起こった」と知らされる*29。
物語の結末において、その記述は後の出典から逸脱している。この版では、ネズミ退治の金銭的な決着がつかなかった後、笛吹きは再び笛を手にし、前と同じように通りを行くと、街の門の一つで数人の少年に追いかけられ、小高い丘にさしかかると、その脇に広い穴が開き、そこに自分と130人居た子供たち全員が入った。入ると、丘はまた閉じて、元通りになった(p.86)。
この出来事を目撃するのは、置き去りにされた足の不自由な少年である(このイメージはグリム童話にも登場する)。このバージョンで新しい事、ブローニングの詩を解釈する上で重要なのは、笛吹きとトランシルヴァニアとの関連である。ブローニングの出典であるフェルステーゲンは、「このことはトランシルヴァニアについて語る際に私の記憶に浮かんだ」(p.87)と明言し、「トランシルヴァニアのサクソン人の中には、『ハーメルのブルガー』と同じ姓を持つ人々がいる」と説明している。このことから彼は、曲芸師か笛吹き男[中略]が、死霊術[中略]によって、彼らをそこへ運んだかもしれないと結論づけたが、これは真実から程遠いものと見える。というのも、トランシルヴァニアに住むサクソン人にとって、見知らぬ子供たちが大勢連れてこられたことは、ハーメルンに住む人たちが子供たちを失ったのと同じくらい大きな驚きであった筈だ。そして、本当にそのようなことがあったというのなら、そのように衝撃的な出来事を、誰一人覚えておれなかったということになる[中略](p.87)。 ここには多くの不確かさと矛盾がある。トランシルヴァニアの年代記編纂者たちは、トランシルヴァニアに移住したサクソン人の最古の歴史は、がっかりするほどまばらだと主張している*30。
重要なのは、ブローニングが(後世の情報源ではなく)フェルステーゲンの話を取り上げていることだ。…それゆえ彼は、迷子の子供たちの目的地としてトランシルヴァニアを強調している:
トランシルヴァニアに住む部族の1つは
外国人に由来すると見られる
風変わりな風習服装を持つ
そのことで隣人たちの強調するには、
その祖先が嘗て上ってきたとか
地下の牢獄か何かから 罠に嵌められ入っていたのが
はるか昔に大いなる一団となり
ブラウンシュヴァイク公国にあるハーメルンの町から。
しかしなぜ、どのようにかは、彼等もわかっていないとか。
(14節290-99行)
彼の言う「異質な」人々とは、迷子になったドイツ人の子供たちの子孫であり、今では「風変わりな」「部族」に成長している。放浪者であり「ジプシー」(162行)であった笛吹きの異質な何かが、現在ルーマニアに移住しているドイツ人の子供たちの子孫に乗り移ったのである。行方不明になった子供たちの運命を説明するために、時代とともにさまざまな説が唱えられてきた。例えば、1212年に何千人もの子供たちがフランスとラインラントから出発し、帰らぬ人となった悲劇的な聖地遠征である子供十字軍を、笛吹きは募集していたとか。*31
また、子供たちを連れ去ったネズミに象徴されるペストの暗喩を示唆する者もいる。不吉な人物が人々を死へと誘うという発想は、中世の民間伝承や、それ以前から『死の舞踏』の表現を通して親しまれてきたものだろう。悪魔はしばしば笛を吹く姿に描かれている*32。
ブローニングの『ハーメルンの笛吹き男』は、グリム説話とは趣が異なる。ウィリー・マクレディという9歳の子供に贈ったものであるから、声に出して読んだり、暗記したりするように書かれており、直接的な表現が含まれている。*33。
ブローニングはハーメルンの位置をハノーファーからブランズウィックに変更している。
- 訳注:
- 当時のハーメルン市に対する利権は、フルダ修道院からミンデン司教に渡り、やがてその協力者ブラウンシュヴァイク Brunswick 公の国の一部となった。これについてブローニングの表現は
しかし、グリム版と大きく異なるのは、笛吹きがより同情的に描かれていることだ。彼が被害者なのか悪役なのかは曖昧だが、市長と議会に騙され、虐待される様子に重点が置かれている。偏見と貪欲に見える大人たちから子供たちを取り上げることで、正義が果たされる。子供たちが悲劇に見舞われると恐れられているグリム説話とは異なり、彼らの運命はユートピア的であることが示唆されている。このことは、足が不自由なために置き去りにされた子供というブローニングの異形を通して読者に伝わってくる:
「遊び仲間が居なくなって、つまらないよこの街は!
もう気になってどうにかなりそうだよ
みんなが見ている愉快な光景全てが、
笛吹きが僕にも約束したものが。
彼は僕等を誘って言ったよ、喜びの土地に、
町に来ないかと、こう、手を差し出して。
そこでは泉湧き出し果物の樹が育ち
花に現れる色合いは妖精さながら、
すべてが見た事もなく新しく。
スズメがここでは孔雀より華麗、
犬は此方のダマジカより速く走り、
ミツバチは針も持たなくなって、
産まれる馬は鷲の翼持つ。
そして僕を安心させるように
この動かない足もすぐに治るでしょうと。
笛の音が止んで、僕は取り残された、
気がついたら丘の外に居たんだ、
心ならずも一人ぼっちにされて。
だから未だにびっこ引き引き歩いてる、
あの国のことはそれからもう聞いたことがないよ!」 (13節236-55行)
ユートピア的な約束がそこにあるが、それは実現されているのだろうか?笛吹きが信頼できるかどうかについては疑わしい(「彼は私たちを導いて、喜びの地へと言ったからだ」240行)。実際に約束が実現したのかは明らかにされていないが、トランシルヴァニアはこのユートピア的な結末によって救済される可能性がある……今では豊かで色彩豊かな「喜びの地」になっている……。しかし、この詩の曖昧さは、ブローニングが子供の死に対する見方、つまり足の不自由な人が治り、「蜜蜂」が「針を失くした」(13節228行)想像上の天国を指している可能性さえあるほどだ*34。
ブローニングは、この出来事を「1376年7月22日(274-75行)」とし、フェルステーゲンへの恩義を示している。失われた子供たちの子孫は現在トランシルヴァニアに住んでいるという彼の主張は、斑な笛吹きが「黒魔術によって子供たちをトランシルヴァニアに運んだかもしれない」(p.87)というフェルステーゲンの見解を支持するもののようだ。これがストーカーに影響を与えたのだろう。トランシルヴァニアでは、ドラキュラもまた「死霊術の助けを借りている(p.221)。ドラキュラと笛吹きは、極端な異質さ、獣や人間を操る能力、黒魔術の力、悪魔との親族関係といった類似した属性を持っている*35。
しかし、伯爵は音楽の妖しい力を使って犠牲者を追い払うことはしないし、笛吹きは伯爵と違って貴族の出ではない(それゆえ、市長と議会は彼を「赤と黄色のジプシーコートを着た放浪者」(161-2行)と呼び、見下している)。ドラキュラは「気の向くままに現れる」ことができ(p.221)、どちらも不気味な出現と消失を伴う。両者はさらに、旅によって結びついている。伯爵はトランシルヴァニアからイギリスへ向かうが(その後戻ってくる)、笛吹きはドイツからトランシルヴァニアへ向かう(おそらく当時の、トランシルヴァニアへのドイツ人移住を反映している)*36。
- 訳注:
- トランシルヴァニア・ザクセン人と呼ばれるドイツ移民のこと。『ドラキュラ』では、トランシルヴァニア4民族のうち「南部のサクソン人 Saxons in the South」として言及されている。なお、彼等は専らフランケン方言を話していたという。
どちらの文章も、トランシルヴァニアをイギリス人のレンズを通して見ている。
20世紀になると、ドラキュラ神話は映画という新しいメディアを通じてトランシルヴァニアから離れ、1922年のF・W・ムルナウの映画『ノスフェラトゥ』によってドイツにもたらされた*37。
この映画の題名は、ストーカーが引用したエミリー・ジェラルド『トランシルヴァニアの迷信』で、ルーマニア語で「吸血鬼」を意味する言葉とされたのだが、実際にはルーマニア語に存在する言葉ではない。ルーマニア語で「吸血鬼」を意味するのは「vampir」である。ジェラードは、「疫病神」や「耐え難い」(nesuferit)を意味するルーマニア語を読み間違えたか、誤訳したようだ。ノスフェラトゥは、「疫病持ち」を意味するギリシア語のnosforosにも近い*38。
この言葉をストーカーは一般名詞として使うが、『ノスフェラトゥ』の製作者たちは、大文字の固有名詞の地位を与えている*39。吸血鬼と疫病は、ブローニングの『笛吹き男』とストーカーの『ドラキュラ』の両方のテーマである、ネズミによって特徴づけられる害虫の比喩において象徴的に組み合わされている。
<映画とストーカーの小説との違いは驚くばかり。ヘンリック・ガレンの脚本では、登場人物の名前がすべて変更されている。ドラキュラは「オルロック伯爵」となり、ジョナサン・ハーカーの姓は「ハッター」となり、ミナは「エレン」と改名される(ただし、後の版ではミナ以外の名前は元に戻され、「ニーナ」と名付けられる)。結婚しているルーシーは脇役で、レンフィールドはハッターの雇い主である。レンフィールドは正気を失っており、オルロックの奴隷になっていることが判明する。ヴァン・ヘルシングは "ブルワー "と改名され、ここでも重要な変更点として、吸血鬼に対して完全に無力化される。この映画には「光の乗組員」は登場しない。エレンは勇気ある自己犠牲*40によって吸血鬼を滅ぼし、ドイツのブレーメンかウィスボリに向かう。
この映画で最も印象的なのは、マックス・シュレック(この姓はドイツ語で「恐怖」を意味する)が演じるオルロック自身である。彼はエドワード・カレンでもR・パッツでもない。ハゲ頭、尖った耳、鉤鼻、ネズミのような歯。牙は口の(現在よく知られているように左右にあるのではなく)前面にあり、彼が連れてくるネズミに似ていることを強調している*41。
この映画は、オルロックのグロテスクさと、彼が(無意識のうちにハーカーに助けられ)ブレーメンに持ち込んだペストとの関連性によって、その衝撃的価値を高めている。ドイツ表現主義映画は、国民性と「ドイツの魂」を語る現代史の寓話として読まれるのに適している。『ノスフェラトゥ』は明らかに、典型的なドイツの町を作り出し、それを外国の脅威と重ね合わせようとしている。これを1920年代のワイマール・ドイツに蔓延していた態度の文脈に位置づけるのは難しくない。ワイマール共和国は統一ドイツを作ろうとしていたのである*42。
舞台は1890年代のロンドンから1830年代のドイツ(主にブレーメン)に変更されている*43。これはもちろん、グリム兄弟が神話や物語、辞書でドイツ精神を構築していた時代と重なる*44。
ノスフェラトゥの外見(鉤鼻)と、ドイツの不動産を購入する手助けをするレンフィールドとのつながりを考えると、この映画が反ユダヤ主義的と見られる可能性があることがわかる。シュレックのノスフェラトゥは「カルパチアのシャイロック」と形容されているが、おそらくエレンはここでも(財産を手に入れるユダヤ人吸血鬼に翻弄される)ドイツ人の魂を代弁しているのだろう*45。
吸血鬼の腕と手の影がエレンの体に沿って動き、拳がエレンの心臓を握りしめる有名なシーンは、魂が憑依していることを示唆している。グリム兄弟が最も捉え、守ろうとしたのは、国民性やドイツの魂だったからだ。
民族主義、セクシュアリティ、伝染病といったテーマが吸血鬼に関連してうまく導入されているが、この映画の中心的なイメージは常に死体のマックス・シュレックである。ムルナウとシュレックが吸血鬼を人間の害虫のような存在として描くのは、ストーカーからエネルギーを得ている部分もあるが、伝染と汚染のネットワークにまつわる、より広範な恐怖と集団的な強迫観念を利用したものでもある。 食べたり食べられたりすることの致命的な連鎖が探求されているこの作品では、吸血鬼ノスフェラトゥは、コウモリではなくネズミの大群と結びついている。
エリック・バトラーは本作の分析において、「吸血鬼というキャラクターは他の人物ににじみ出し、不完全に癒されている歴史の傷跡を指し示している」と論じている*46。
この映画は、『1838年ヴィスボリにおける大死亡の記録』という体裁をとっている。この寓話は、1920年代のドイツに近いことを隠すために、出来事の遠い枠組みを確立している。吸血鬼が襲う1830年代の町は、より単純な時代の理想像を表している。フッターやエレンといった吸血鬼以外の登場人物は、この映画が製作された世界で見られるような「ドイツらしさの純粋な形を暗示している」*47。 映画は小説の構造を反映しており、前半は東部、後半は西部が舞台となっている。この映画は、吸血鬼の生まれ故郷と、彼が侵入したドイツの町との間に対立を設定している。疫病を媒介するノスフェラトゥは不浄を意味し、彼が東洋の世界から西洋の世界へ移動することは、一方の世界が他方の世界に汚染されることを意味する。オーロックは『笛吹き男』のように意図的に異質な存在であり、その服装は「ヨーロッパ的でもあり "東洋的 "でもある」という、認識可能な型にはまらない「不確定な異質さ」を表している*48。
西へ、ドイツの港へ向かう旅は、彼の変貌を示し、彼の異質な性質(ますます他者的なもの)をさらに際立たせる。『ノスフェラトゥ』の熱病めいた物語は、14世紀の黒死病を想起させ、野蛮な過去が19世紀の映画の設定をますます崩壊させる脅威となっている。これもまた、過去が現在に侵入している例であり、斑な笛吹き神話における類似の型と関連性を持たせるもので、前述の通り、子供十字軍(1212年)や黒死病(1350年頃)を表しているという説もある。前近代のヨーロッパでは、疫病が発生すると、ユダヤ人が罪を犯したと考えられていた*49。
『ノスフェラトゥ』は文化的な不安を利用し、現代の反ユダヤ主義的なレトリックや芸術に通じる表現戦略を用いている。この映画は、ユダヤ人としての吸血鬼の寓話を提供している。第一次世界大戦後のドイツの右翼は、経済恐慌の責任はユダヤ人と共産主義者にあるという考えに固執し、ヒトラーは『我が闘争』(1925年)の中でユダヤ人を吸血する寄生虫として描いた。映画『永遠のユダヤ人』(1940年)では「ユダヤ人の写真とネズミの群れのイメージを対にしたのは、望ましくない社会的要素を害虫と同一視するノスフェラトゥとの並置を用いたものだった」*50。
この映画の題名 "Der Ewige Jude" は、ドイツ語で『さまよえるユダヤ人』を意味する。ストーカーはこの中世の民俗的な人物に魅了されていた。またジュディス・ハルバースタムは、ドラキュラが反ユダヤ主義的言説のユダヤ人にいかに似ているかを、いくつもの点で実証している:「外見、お金/古い黄金との関係、寄生、堕落、無常、祖国への忠誠の欠如、女々しさ」である*51。
こうしてこの小説は、一種のゴシック的反ユダヤ主義を呼び起こす*52。視覚的にもドラキュラと、ヴィクトリア朝時代の他の架空のユダヤ人とのつながりは非常に強い。例えば、ディケンズ『オリバー・ツイスト』に登場する悪名高いフェイギンなど*53。 興味深いことに、20世紀に描かれたフェイギンは、意図的に「笛吹き男」を参照している。ミュージカル『オリバー』(1968年)では、フェイギン役の俳優ロン・ムーディーが、傘を笛に見立てて、子供たちをヴィクトリア朝の暗黒街へと導くダンスを演じている*54。
第二次世界大戦中、ムルナウがドイツで行ったドラキュラ神話の再構築と『笛吹き男』との間にも関連性がある。第二次世界大戦中、子供たち(その多くはユダヤ人)の疎開は「斑な笛吹き作戦」というコードネームで呼ばれた*55。この物語と戦時中の難民との関連は、1942年のネヴィル・シュートの小説で想像力豊かに展開された*56。例えば、1931年のアル・ボウリーの「ハーメルンの笛吹き男」の歌では、ネズミに焦点が当てられているが、行方不明の子供たちについては言及されていない*57。ディズニー・アニメーションの『笛吹き男:おどけた交響曲』(1933年)では、ねずみたちはチーズによって簡単に操られ、子供たちは工場での苦難の生活から解放される。笛吹きが山を切り開き、彼らを幸せで楽しい国へと導くからである*58。
こうした居心地の良い解決も束の間、第二次世界大戦はグリム説話の受容と理解にさらなる変化をもたらす。マリア・タタールは、「グリム説話集は第二次世界大戦後、残酷さ、暴力、残虐性、よそ者への恐怖と憎悪、激しい反ユダヤ主義を助長する本として非難された」と断言している*59。
しかし、奇妙な運命のいたずらで、この本は、ドイツ語圏でも英米圏でも、ホロコーストの恐怖を警告するために使われるようになった。*60
多くのおとぎ話は、よそから来た者、よそ者、よそから来た生き物や人物の姿に対する根深い不安を示している*61。
そして結論として、移民労働者と亡命希望者をめぐるヨーロッパのパラノイアの分析において、この物語が現在どのように再展開されているかを示したい。クリストファー・ウォレス著『The Pied Piper's Poison』は1998年に出版された*62。ウォレスは、教授の退職演説の中で引用される学術研究論文の物語構造を用いて、おなじみの物語を巧みに作り変えている。この論文は、何世代にもわたって語り継がれてきた昔話のファンタジー的要素を否定している。著者はその代わりに、1630年代にヨーロッパで起こった三十年戦争という社会史的背景を取り出し、物語で示唆されている出来事の不穏で物質的な説明を見出している。この小説の教授アーサー・リーは、ハーメルンはネズミに包囲されたのではなく、スペイン兵に包囲されたのだと推測している。笛吹きがハーメルンを追い払おうと申し出たのは、この「ネズミ」であった。彼は笛吹きを部外者、おそらくは17世紀のヨーロッパにいた東欧からの出稼ぎ労働者と見ている。他者」を恐れるのではなく、むしろ受け入れるのであれば、ドラキュラを究極の亡命者と見なし、故郷の土を箱に入れて持ち運び、移民としての笛吹き男というこの同情的な現代的読み方と結びつけることもできる。
斑な笛吹きの神話に対するウォレスの準マルクス主義的分析は、この小説の第二の時代である第二次世界大戦に光を当てる役割を果たしている(社会的苦難はハーメルンに似ており、二つの時間枠を結びつける)。
本書の学者である主人公アーサー・リーは、戦時下における拷問の20世紀の慣行の中に、この民話との厄介な類似点を見出す。この「笛吹き男」の物語では、子供たちは旅回りの吟遊詩人のメロディーに誘惑されてトランシルバニアに運ばれるのではなく、深刻な飢饉の中、町の人々に食べられてしまうのだ。人々はその状況によって、文字通りネズミか吸血鬼のような状態になってしまう。*63
歴史資料の信頼性の低さは、小説のさまざまな場面で強調される。リーが「斑な笛吹き」という名前の背後にある可能性のある理由を考察するとき、このことがわかる:
Pied はフランス語の à pied が転訛したもので、「歩いて」という意味であり、この男がもともと旅人であったことを示している。また、彼が着ていた衣服の種類を暗示している可能性もある。pied は斑点やまだら模様を意味し、道化師や道化師に連想されるような明るく金色をしている。最後に、この単語は彼の本名が訛ったものである可能性もあり、特にアラビア語由来であれば、教養のないドイツ語話者には発音が難しいだろう*64
この歴史化の思弁的な性質で、神話を歴史化、文脈化しようとする行為そのものが問題になってしまうのだ。おとぎ話や昔話が特に書き換え可能であるとすれば、それは特定の文脈から本質的に抽象化されているためでもある。アンジェラ・カーターは、「おとぎ話の内容は、匿名の貧しい人々の現実の生活を、時に不快なほど忠実に記録しているかもしれないが、[...]おとぎ話の形式は通常、観客に生活体験の感覚を共有するように誘うようには構成されていない」と論じている*65。
このような物語を歴史的に特定の文脈に結びつけることの限界が、ここに露呈している。ジョイス・クリックは、グリムの民話集は「どの時代にも属さないか、あるいは昔々にあった遠い封建時代や絶対主義時代のものであり、どこを舞台にしているわけでもない」と論じている*66。
おとぎ話の村や森や怪物が、一見どこにも存在しないように見えて、適用可能性や関連性という点ではどこにでも存在するのは、このような形式と内容の緊張関係があるからである。斑な笛吹きとドラキュラの神話は、物語化、神話化、歴史化の終わりのない循環に永久に巻き込まれる。ブラム・ストーカーやロバート・ブローニングのトランシルヴァニアの表現に疑問を抱くことはあっても、テキストを社会史的文脈と密接に結びつけたいという現代人の欲求には注意しなければならない。このアプローチは、他者性に関しては洞察に富んでいるが、小説やおとぎ話のゴシック的要素を合理化しようとする試みであり、「昔々」というフレーズが喚起する魅惑を拭い去ってしまうものでもある。このように考えると、「文学活動は夢の仕事の特別な形態になる」というブロッホの意見に同調するしかない*67。
これらのテクストの理解は、場所と歴史の中にそれらを位置づけ、その社会的機能を明らかにするような読み方に対して、その先見的な性格の進歩的な可能性を明らかにするような読み方を設定することができれば、より深まる。これは、フレデリック・ジェイムソンに倣って、(ブロッホに倣って)「ユートピア」とイデオロギー的なものとの間の弁証法を考察することである*68。 もし私たちが両方のアプローチを受け入れることができれば、私たちは「森の向こうの大地」の驚異に心を開きつつ、過去が現在に暗い影響を及ぼしていることを認識しながら、真に勇気をもらうことができるだろう。
注釈
- *1.
- 例えば、ラドゥ・フロレスク Radu Florescu は In Search of the Pied Piper(2005, 未訳)と In Search of Dracula(1972, 邦題『ドラキュラ伝説―吸血鬼のふるさとをたずねて』角川選書)を出版している。しかし、当時の串刺し公ヴラドの領地のひとつがドイツ人入植者に「ハムレシュHamlesh」と呼ばれていたという事実があり、それを著者が「ハーメルンHamelinを思わせる」と主張した以上の関連はないようだ(In Search of Dracula (Twickenham: Athena Press, 2005), viii)。
- *2
- ジョセフ・ジェイコブス(1854-1916)は1890年に English Fairy Tales を出版した(イギリス昔話集 English Fairy Tales [英米児童文学選書 5]研究社)。More English Fairy Tales(1894)には The Pied Piper of Franchville が収録されており(続イギリス昔話集 [英米児童文学選書 6]研究社)、出典はアブラハム・エルダー Abraham Elder の Tales and Legends of the Isle of Wight(London: Simpkin, Marshall, and Co., 1839 未訳)である。彼は、ナット氏がこの物語を要約し、部分的に書き直し、「ブローニングからのタッチ」を取り入れたと付け加えている(Joseph Jacobs, 'Notes and References', in More English Fairy Tales ([1894] Milton Keynes: Pook Press, 2010), 218)。この版では、物語はニュータウンかフランチヴィルが舞台となり、笛吹きが子供たちを森に案内して、そこで子供たちは姿を消す。山やトランシルヴァニアについての言及はない。
- 3
- ラドゥ・フロレスクは、「ハーメルンは中世にはQuer-Hamelinとして知られており、これは『工場の町』を意味する」(In Search of the Pied Piper (London: Athena Press, 2005), p.197)と主張している。彼はまた、1589年に匿名の作者によって高地ドイツ語で書かれた「ハーメルンの歴史」と題された、ネズミに焦点を当てた韻文の武勇伝があったとも主張している(p.200)。 これはウィルケニングの主張と一致しており、彼は1500年代後半にヨーロッパ各地の町でネズミ捕りの話が初めて登場したと主張している。Christoph Wilkening, ‘The Pied Piper of Hamelin: Germany’s Mystery of Missing Children’, The World and I 15 (2000): 178-87 (181). フロレスクは、「トランシルヴァニアに伝わるドイツの民話」によれば、ネズミの王の脊椎から笛を作り、その皮を伸ばして太鼓にすると、ネズミを操ることができると述べている(p.191)。この話には年代は記されていない。
- 4
- James F. Louks and Andrew M. Stauffer 編『Robert Browning's Poetry』(W. W. Norton: New York and London, 2007)所収、'The Pied Piper of Hamelin', l.72-74, l.92.[103-110] 以下の参照はすべてこの版に拠り、本文中の括弧内に示した
- 拙訳『ハーメルンの斑な笛吹き』
- 5
- ブラム・ストーカー『ドラキュラ』ロジャー・ラックハースト編。Roger Luckhurst (Oxford: Oxford University Press, 2011), 221.以下の参照はすべてこの版に拠り、本文中の括弧内に示した。
- 6
- Mark Currie, Difference (London and New York: Routledge, 2004), 133.
- 7
- 今日では、怪物的な民間伝承のヴァンパイアではなく、消極的な、あるいは同情的なヴァンパイアが登場する。これは、アン・ライスの『インタビュー・ウィズ・ザ・ヴァンパイア』(1976年)からステファニー・メイヤーの『トワイライト』(2005年)、HBOがシャーレイン・ハリスの『サザン・ヴァンパイア・ミステリーズ』(2001~13年)を『トゥルーブラッド』(2008~14年)としてテレビドラマ化した作品に見られる。
- 参照:
- Margaret L. Carter, ‘The Vampire as Alien in Contemporary Fiction’ 所収:Joan Gordon & Veronica Hollinger 編 'Blood Read: The Vampire as Metaphor in Contemporary Culture'(Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1997 未訳), p.27-44.
- 8
- Stephen D. Arata, ‘The Occidental Tourist: Dracula and the Anxiety of Reverse Colonization’, in Bram Stoker, Dracula (New York and London: Norton, 1997), ed. Nina Auerbach and David J. Skal, 462-70 (463).
- 12
- もちろん、この小説には他にも多くの読み方がある。テリー・イーグルトン、マイケル・モーゼス、ロイ・フォスターが、トランシルヴァニアをアイルランド代わりとして非常に説得力のある読み方をしていることを簡単にまとめ、「東方問題」との関連でこの小説を対照的に読む方法については、マシュー・ギブソン「ブラム・ストーカーとベルリン条約」ゴシック研究第6巻2号(2004):p.236-51 を参照。
- 13
- デイヴィッド・J・スカルはこの点を指摘し、『ノスフェラトゥ』におけるドラキュラの再話を「カルパチア人のためのシャイロック」であり、「ヒトラーの映画的予期」と呼んでいる。ハリウッド・ゴシック』(Faber and Faber: New York, 1990)、p.86を参照。ジュディス・ハルバースタムは、トッド・ブローニング監督の『魔人ドラキュラ』(1931)では、ベラ・ルゴシの首にかけられたメダリオンが「ダヴィデの星」に似ていると主張している(Gothic Horror and the Technology of Monsters (Durham, NC and London: Duke University Press, 1995), 87)。 このように、初期の映画化作品では、ドラキュラはユダヤ人的外見を誇張されたり、意図的に参照されたりしている。
- 14
- Gert Ueding, ed., Literature ist Utopie (Frankfurt: Suhrkamp, 1978), cited in Jack Zipes The Utopian Function of Art and Literature: Selected Essays, by Ernst Bloch, trans. Jack Zipes and Frank Mecklenburg, Studies in Contemporary German Social Thought (Cambridge, MA and London: MIT Press, 1989), xxxiii.
- 15
- Bronwen Riley, Transylvania (London: Frances Lincoln, 2007), 10.
- 16
- Riley, Transylvania, 11.
- 17
- ‘The Nineteenth Century’シリーズ所収、エミリー・ジェラルド Emily Gerard 『トランシルヴァニアの迷信 Transylvanian Superstitions』 , July, 1885, 128-44.
- エリザベス・ミラー Elizabeth Miller とロバート・エイティーン=ビサン Robert Eighteen-Bisang 共著「ストーカーの小説制作記録 Stoker’s working notes for the novel」を参照。
- 附録4にブラム・ストーカーのドラキュラ参考文献を列挙、『ブラム・ストーカーのドラキュラ関連書付 Bram Stoker’s Notes for Dracula』 (McFarland: Jefferson, NC, 2008), 304頁。
- 18
- この小説のためのストーカーの作業メモは、フィラデルフィアのローゼンバッハ博物館・図書館に所蔵されている。同博物館がこれらを入手したのは1970年のことである。もともとは1913年にストーカー未亡人のフローレンスがサザビーズで販売したものだった。ノートは最終的に、ロバート・エイティーン=ビサングとエリザベス・ミラーによって書き写され、編集され、2008年に謄写出版された。
- Stoker’s working notes for the novel are housed in the Rosenbach Museum and Library in Philadelphia. The museum only acquired them in 1970. They were originally sold at Sotherby’s by Stoker’s widow Florence in 1913. The notes were eventually transcribed and edited by Robert Eighteen-Bisang and Elizabeth Miller and published in facsimile in 2008.
- 19
- For selected published work on the sources, see Frayling, Vampyres; Arata, ‘Occidental Tourist’;Miller and Eighteen-Bisang, Bram Stokers Notes for Dracula; Marius Mircea Crişan, The Birth of The Dracula Myth: Bram Stoker’s Transylvania (Bucharest: Pro Universitaria, 2013). Victorian works on Transylvania in English include John Paget, Hungary and Transylvania (London: Murray, 1855); James O. Noyes, Roumania (New York: Rudd & Carlton, 1857); Charles Boner, Transylvania: Its Product and Its People (London: Longman, 1865); Andrew W. Crosse, Round About the Carpathians(Edinburgh and London: William Blackwood, 1878); E. C. Johnson, On the Track of the Crescent:Erratic Notes from the Piraeus to Pesth (London: Hurst and Blackett, 1885); M. Edith Durham, The Burden of the Balkans (London: Edward Arnold, 1905); Jean Victor Bates, Our Allies and Enemies in the Near East (New York: E. P. Dutton & Co., n. d.); Emily Gerard, The Land Beyond the Forest, 2 vols. (Edinburgh and London: William Blackwood & Sons, 1888). See Arata, ‘The Occidental Tourist’ (note 3, 628). Stoker is known to have engaged with Boner and Crosse, and also William Wilkinson’s An Account of the Principalities of Wallachia and Moldavia (London: Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown, 1820). For a full list, see Miller and Eighteen-Bisang, Bram Stoker’s Notes for Dracula, 304.
- 20
- Roger Luckhurst, ‘Why Bother Reading Bram Stoker’s Dracula’, OUPBlog, April 22, 2015, accessed October 17, 2015, http://blog.oup.com/2015/04/reading-bram-stoker-dracula/.
- 21 Riley, Transylvania, 23.
- 22
- Joyce Crick, ed., Jacob and Wilhelm Grimm Selected Tales (Oxford: Oxford University Press, 2005), xiv.
- 23
- I refer here to the following works: Heinz Rölleke, Die älteste Märchensammlung der Brǖder Grimm (Cologne-Geneva: Martin Bodmer Foundation, 1975); John Ellis, One Fairy Story Too Many: The Brothers Grimm and Their Tales (Chicago: Chicago University Press, 1983) and Jacob and Wilhelm Grimm, The Original Folk and Fairy Tales of the Brothers Grimm: The Complete First Edition, trans. and ed. Jack Zipes (Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2014). Zipes argues that the Grimm brother’s primary method was to invite storytellers to their home and have them tell the tales aloud, which the Grimms then noted down. These people were not peasants, however, and Zipes adds that ‘most of the story tellers during this period were educated women from the middle class or aristocracy’ (Jack Zipes, The Brothers Grimm: From Enchanted Forests to Modern World(Basingstoke: Macmillan, 2002), 28).
- 24
- Jack Zipes, introduction to The Original Folk and Fairy Tales, by Jacob and Wilhelm Grimm, xxv.
- 25
- Jacob and Wilhelm Grimm, ‘Die Kinder zu Hameln’, Deutsche Sagen, herausgegeben von den Brüdern Grimm (Berlin: In der Nicolaischen Buchhandlung, 1816), no. 244, 330-33. グリム兄弟/吉田孝夫(訳)『グリム ドイツ伝説集』八坂書房 第1部 p.298 #244「ハーメルンの子供たち」
- 「ハーメルンの子供たち」英訳は D.L.Ashliman, in The Pied Piper of Hameln and related legends from other towns, accessed 1 June 2015.
- 26
- この丘の名は一定しない。ワンリーは Koppen(コッペン)と呼び、ブローニングは Koppelberg Hill(コッペルベルクの丘)とする。
- 27
- ドイツでは、1803年にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが『笛吹き』を初めて詩的に表現した。ゲーテは『ファウスト』でもこの物語を引用している。
- 28
- Nathaniel Wanley, The Wonders of the Little World: or A General History of Man (London: C. Taylor, Holborn & T. Thornton, 1678), p.632. 以下の参照はすべてこの版によるもので、本文中の括弧内に示した。
- 29
- Richard Verstegen, A Restitution of Decayed Intelligence: in Antiquities. Concerning the most noble, and renowned English nation. By the study and travell of R.V. (London: John Norton, for Joyce Norton and Richard Whitaker, St Paul’s Church-yard, 1643), p.86. 以下の参照は全てこの版によるもので、本文中の括弧内に示した。
- 31
- 『笛吹き男』批評は1892年から2013年に至るまで、こうしたおなじみの議論を繰り返している。以下、例を挙げると Eliza Gutch, ‘The Pied Piper of Hamelin’, Folklore 3:2 (June 1892): p.227-52; Bernard Queenan, ‘The Evolution of the Pied Piper’, Children’s Literature 7 (1978): p.104-14; Sheila Harty, ‘Pied Piper Revisited’, in Education and the Market Place, ed. David Bridges and Terence H. McLaughlin (London: Routledge, 1994), p.29-55; Christoph Wilkening, ‘“The Pied Piper of Hamelin”: Germany’s Mystery of Missing Children’; Floresco Radu, In Search of the Pied Piper; Wolfgang Mieder, The Pied Piper: A Handbook (Westport, CT: Greenwood Press, 2007); Mary Troxclair Adamson, ‘The Legend of the Pied Piper in the Nineteenth and Twentieth Centuries: Grimm, Browning, and Skurzynski’, The Looking Glass: New Perspectives on Children’s Literature 17:1 (2013), accessed June 3, 2015.
- 32
- キリスト教会による牧神パンの悪魔化以降、笛吹きなど彼の役割の大半が、悪魔に移ったものと見ることができる。Jennifer Spinks and Sasha Handley, eds., Magic, Witches and Devils in the Early Modern World (Manchester: John Rylands Library, 2015)を参照。
- 33
- 「この詩は、名優ウィリアム・チャールズ・マクレディの息子ウィリー・マクレディのために作られた。少年は当時、病床にあり、この詩はその励ましとなるべく贈られた。」 ‘The poem was composed for Willie Macready, son of the famed actor William Charles Macready. The boy, sick at the time, was given the poem to illustrate’, Robert Browning’s Poetry, note 1, 103.
- 34
- ブローニングがこの詩を送った子供、ウィリアム・マクレディは重病で、死が間近に迫っていたのかもしれない。
- 訳注:このバラッドは1842年春、劇場支配人 William Macready の求めに応じ、病床にあったその息子 Willie のために書かれ、捧げられたもので、発表予定はなかった。詩人の妹 Sarianna から写しを見せられた Alfred Domett の勧めにより、同年の詩集 Dramatic Lyrics に収録された。受取人の謝辞が遺っている。
- 35
- ‘he is devil in callous’, Bram Stoker, Dracula, p.221.
- 36
- さらに最近の説では、子どもたちはモラヴィアなど中央・東ヨーロッパの他の地域にいたとされていることは注目に値する。ラドゥ・フロレスキュは著書『In Search of the Pied Piper(笛吹き男を探して)』に於て、子供たちは新しくできたバルト三国の入植者になるために連れ去られたが、海で行方不明になったという説を唱えていた。ライリーによれば、子供たちはベルリンの北にあるブランデンブルク州に定住したとライプチヒ大学の言語学者ユルガン・ウドルフは主張している。つまり、ここでも合意ないし意見一致は得られていない。これらの説の議論と比較については、ライリー『トランシルヴァニア』p.28.
- 37
- この映画は1922年3月にベルリン動物園で初公開された。
- 38
- See Katharina M. Wilson, ‘The History of the Word Vampire’, in Alan Dundes, The Vampire: A Casebook (Madison: University of Wisconsin Press, 1998), 3-12.
- 39
- この映画についての考察は、デイヴィッド・J・スカル『ハリウッド・ゴシック』、エリック・バトラー『文学と映画における吸血鬼の変容』(サフォーク:カムデンハウス、2010年)、ステイシー・アボット『セルロイド吸血鬼』(オースティン:テキサス大学出版部、2007年)による。 I am indebted to David J. Skal, Hollywood Gothic for my discussion of this film, together with Erik Butler, Metamorphoses of the Vampire in Literature and Film (Suffolk: Camden House, 2010), and Stacey Abbott, Celluloid Vampires (Austin: University of Texas Press, 2007)
- 40
- クリストファー・クラフトによる造語で、「赤い唇でキスして:ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』におけるジェンダーと逆転」、Representations 5 (1984), 107-33(110) の中で、この小説におけるドラキュラの敵役を表現している。 A term coined by Christopher Craft to describe Dracula’s antagonists in the novel in ‘Kiss Me with Those Red Lips: Gender and Inversion in Bram Stoker’s Dracula’, Representations 5 (1984), 107-33(110).
- 41
- David J. Skal, Hollywood Gothic, 87.
- 42
- See Peter Gay, Weimar Culture: The Outsider as Insider (New York: Norton, 2001), 1.
- 43
- See Kevin Jackson, Bite: A Vampire Handbook (Portobello: London, 2009), 84.
- 44
- Reinhart Fuchs [Reynard the Fox] (1834); Deutsche Mythology [German Mythology] (1835), Tales, 2 vols (1837). After this, they moved to Berlin to work on their German Dictionary.
- 45
- The phrase ‘Shylock of the Carpathians’ is employed in Skal, Hollywood Gothic, 52.
- 46
- Butler, Metamorphoses, 156.
- 47
- Butler, Metamorphoses, 157.
- 48
- バトラー『メタモルフォーゼ』157頁。黒いロングコートを羽織り、ターバンに似た帽子をかぶっている。
- 49
- ユダヤ人はキリストの教えを拒否し、キリストをローマ帝国に引き渡して十字架につけたと考えられていた(したがって、キリスト教の教義において彼らは部外者だった)。ユダヤ人はすでに社会的に同化されていない存在として目立っていたため、何か原因不明の苦難が共同体を襲うと迫害の対象となった。
- 50
- バトラー『メタモルフォーゼ』162頁。永遠のユダヤ人』は1940年にフリッツ・ヒップラーが監督。脚本はエバーハルト・タウベルト。この映画は反ユダヤ主義的で、ナチスのプロパガンダと見ることができる。 Butler, Metamorphoses, 162. The Eternal Jew was directed by Fritz Hippler in 1940. The screenplay is by Eberhard Taubert. The film anti-Semitic and can be seen as Nazi propaganda.
- 51 Halberstam, Skin Shows, 92.
- 53
- 両者とも、鉤鼻、ふさふさした眉、うつろな目、爪のような手、長く尖った爪を持っている。19世紀の疑似科学である骨相学と人相学によれば、これらの共通する特徴は退廃性と犯罪性も表している。 David Glover, Vampires, Mummies and Liberals: Bram Stoker and the Politics of Popular Fiction (Durham, NC and London: Duke University Press, 1996), 36.
- 54
- Ron Moody talks about playing Fagin on BBC Radio 4, Last Word, June 14, 2015.
- 55
- ‘Operation Pied Piper’ is described in detail in Judith Tydor Baumel-Schwartz, Never Look Back: Jewish Refugee Children in Great Britain, 1938-45 (West Lafayette, IN: Purdue University Press, 2012) and in Julie Summers, When the Children Came Home: Stories of Wartime Evacuees (London: Simon & Schuster, 2011).
- 56
- シュートの小説では、ナチス占領下のフランスに取り残されたイギリス人が、国境を越えて何人もの子供たちを安全な場所に連れて行こうとする。The Nevil Shute Norway Foundation, accessed 1st October, 2015, http://www.nevilshute.org/index.php を参照。
- 57
- アルバート・アリック・'アル'・ボウリー(1898 - 1941)は、1930年代に人気のあったジャズ・ギタリスト、歌手、クルーナーで、1927年から1941年の間に1,000以上のレコーディングを行った。彼のパイド・パイパーの曲はこちらから:'Al Bowlly - Pied Piper Of Hamelin 1931 Ray Noble', YouTube, accessed 1 October, 2015, https://www.youtube.com/watch?v=S7xG5zWQicI.
- Albert Allick ‘Al’ Bowlly (1898 - 1941) was a popular jazz guitarist, singer, and crooner in the 1930s, making more than 1,000 recordings between 1927 and 1941. His Pied Piper song is available here: ‘Al Bowlly - Pied Piper Of Hamelin 1931 Ray Noble’, YouTube, accessed 1 October, 2015, https://www.youtube.com/watch?v=S7xG5zWQicI.
- 訳注:crooner とはマイクを意識した歌い手、具体的にはビング・クロスビー以降のラジオ歌手を指す。クラシカルなベル・カント唱法では、喉に「声を当て」高々と張り上げるのに対し、クルーンは何処にも「声を当てない」唱法、つまり張り上げていない声ゆえに「囁き」と称する。
- 58
- Pied Piper: A Silly Symphony, 16 September, 1933, director Wilfred Jackson, The Internet Animation Database, accessed 1 October, 2015, http://www.intanibase.com/shorts.aspx?shortid=193#page=general_info.
- ジャック・ザイプスは、ディズニーが「彼自身の "アメリカ的 "気概と創意工夫でヨーロッパの物語を利用した」と論じている。Maria Tatar (New York and London: W. W. Norton, 1999), p.332-44 (332).
- Jack Zipes has argued that Disney ‘used his own “American” grit and ingenuity to appropriate European tales’, ‘Breaking the Disney Spell’, in The Classic Fairy Tales, ed. Maria Tatar (New York and London: W. W. Norton, 1999), 332-44 (332).
- 59
- Maria Tatar, preface to The Hard Facts of Grimm’s Fairy Tales (New Jersey: Princeton University Press, 1987), xx.
- 60
- Maria Tatar, preface to The Hard Facts, xx
- 61
- ジュリー・サンダースは『アダプテーションと収用』(ロンドン、ニューヨーク:ラウトレッジ、2006年)の87ページでこの点を指摘している。Margaret L. Carter, 'The Vampire as Alien' も参照。
- Julie Sanders makes this point in Adaptation and Appropriation (London and New York: Routledge, 2006), 87. See also Margaret L. Carter, ‘The Vampire as Alien’.
- 62
- Christopher Wallace, The Pied Piper’s Poison (Woodstock and New York: Overlook Press, 1999). All further references are to this edition.
- 63
- Wallace’s novel is discussed briefly in Sanders, Adaptation, 84-6.
- 64
- Wallace, The Pied Piper’s Poison, 160.
- 66
- Crick, ed., Jacob and Wilhelm Grimm Selected Tales, xiv.
- 67
- Ueding, cited in Zipes, introduction to Bloch, Utopian Function, xxxiii.
- 68
- Fredric Jameson, ‘Conclusion: The Dialectic of Utopia and Ideology’, in The Political Unconscious:Narrative as a Socially Symbolic Act (London: Routledge, 1989), 281–99.
Works cited
- Abbott, Stacey.
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